TITLE

【サロマ湖100キロに挑む  1999~2008年】


SAROMA


その2 再びサロマを目指して



SAROMA



1999年 初挑戦で幸運にも完走出来たサロマだったが、100キロの恐怖を体の芯までしみ込ませた身には、〝サロマはもう沢山・・・!“ と、その後申込みさえもせず3年が過ぎていた。

SAROMA 2002年正月、不運にも交通事故に遭い、暫く休足?の羽目になった時にはサロマは既に遠い彼方のイベントになっていた。
そんな折、かねてから企画していた「日本縦断駅伝」をいよいよ実施することになり、参加メンバーの顔ぶれからスタートをサロマの翌日宗谷岬に移動して7月2日と決定した。 幸い、事故の後遺症もなく4月からランを再開して縦断駅伝に向けた体つくりが急務となった。この年、「日本縦断駅伝」の責任者として、宗谷岬をスタートした以降の計画、管理が最大の仕事となり、サロマは応援とサポーター・・・と言う市井の“走り好きのおじさん”となって懐かしいサロマの地を踏んだ。

SAROMA しかし、会場に入った瞬間、あの苦しみに敢えて挑戦しようと集まったランナーの熱気に触れ、あの中に居た自分を思い出し、あの日と同じ姿で続々流れていくランナーの帯を力なく見送る自分が居た。夕日を受けて次々ゴールしてくる仲間の晴れがましい姿は、最早自分に置き換えて見ることが出来ない程、サロマは崇高な威厳を持った遠い存在であった。

SAROMA そしてその夜、完走パーテーの席で走友橋本さんが、苦しみの果てにやっと手にした完走メダルを惜しげもなく僕の首に懸けてくれた。 6月30日。68歳の誕生日であった。 思いもかけぬプレゼントであった。それにしても、あの苦しみが凝縮したようなメダルを易々とプレゼントしてくれる度量の大きさに敬服し、〝よーし、来年はお返しをしよう!“ と意を強めた。
SAROMA


予定通り、7月2日「日本縦断駅伝」の壮大な夢に向かって紺碧のオホーツク海を望む宗谷岬からスタートして、遥か3700キロ先の鹿児島県・佐多岬へ向けての第1ステージが始まった。7月7日、760キロの北海道を縦断し霧笛の出迎えを受けてエリモ岬にゴール。北の大地を一週間走り続け、毎日20~30キロを走り切れる体に戻ってはいたが、所詮まだサロマの入口付近。まだとても100キロに挑戦する気力体力には程遠いものであった。


SAROMA



“ サロマは初恋みたいなもの、一度のことだから美しい ” ランナーなら一度は夢見る100キロマラソンをこの様な想いで登り詰めた 市井の“走り好きおじさん”を、再びサロマの過酷なランに追い込む動機になったのは、前年のサロマでの橋本さんからのメダルのプレゼントと、昨年の秋 彼女が挑戦した「甲州夢街道215キロ」の伴走をすることで100キロの距離感を確認したことであった。 {参照: 漆黒の笹子峠を走る} 2001年10月、伴走のメンバー2名が突然不参加となり、粂さん、澤田さんの3名。粂さんは車専任、必然的に伴走は自分一人となって既に諏訪湖から 70キロ走って来た橋本さんを甲府で迎えて遥かな日本橋までの伴走が始まった。午後3時、国道20号線が次第に登りになり、真夜中通過する笹子峠の 旧道20キロ、漆黒の山越えは野生の真っ只中、夜を徹して翌日午後2時まで走り続けた距離は120キロであった。 想定外の100キロ超のランに諦めかけていたウルトラ・ランへの燭光が灯ったことを実感した。

ウルトラ・ランの究極の魅力は、勝負から隔絶された精神力の世界に没入出来ることではないだろうか。 帰巣本能に操られて体力を温存しながらひたすら100キロ先のゴールを目指すランナーの後ろ姿は、自信に満ちた力強さか、 はたまた、不安と恐怖を背負った力ない旅人か・・・。 たとえ、どちらの姿であろうとも、あのスタートの瞬間の崇高な緊張感に魅せられてもう一度 あのスタートの場に立ちたい。


SAROMA
2002.6    
横浜中央走友会 山本 卓


BACK


HOME