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【サロマ湖100キロに挑む  1999~2008年】


SAROMA


その3 再挑戦



SAROMA



‘99のサロマが最初で最後と思っていたが、図らずも’02の「日本縦断駅伝」北海道760キロと、その秋の「甲州夢街道215k」の伴走で120キロを走ったことで、夢の彼方であったサロマが再び身近なものに感じられ、眠っていたサロマ病が目を覚ましてしまった。〝さあ、どうしよう・・・!?“
初挑戦以来既に3年が過ぎて、年齢も69歳を迎えようとしていた。意気込みだけでは100キロは長すぎる。これからの体つくりで間にあうだろうか?  年が明けて’03年の募集が始まり、周りが話題で騒がしくなった頃、周りの波に流されて参加費14,000円を払って申し込んでしまった。

SAROMA その頃、我がクラブからの参加者は7~8名に増えていて、100キロマラソンは特別な存在では無くなりつつあった。僅か3年前、藤岡さんに口説かれて、岡さんと二人で恐怖のワッカ原生花園を走り抜けたのがウソの様な時代になっていた。 3年のブランクを経てレースまで僅か半年、どれだけ体つくりが出来るかが最大の条件であったが、あの苦しみと完走の感動に再び挑む緊張感に押されて、自信を持てる練習が出来ないままレースを迎えてしまった。  出発前に感じていた風邪気味の体調も、はやる気持ちに押されて影をひそめ久し振りのサロマの雰囲気を楽しいでいた。夜、明朝3時出発に合わせて早々にベッドに潜り込んだが、体が温まるにつれて激しい咳の猛襲を受けて眠るどころではなくなった。当然、同室の仲間達は被害者となって眠れぬまま無情にも鳴る目覚し時計に追われるようにベッドから這い出してきた。


SAROMA



SAROMA 長いラン生活の中で、幾度となく風邪気味の体調でレースに出たが、ゴールした時は殆ど風邪の症状は霧消していたことを思い出して、今回もあまり気にかけないでのスタートとなった。
流石に、寝不足と熱っぽさのお陰で、ぼってりした切れの悪い走りで始まったが、意識的には“これが サロマ流の走り”と意に介さず、竜宮台の折り返し付近で海宝さんから貰った固形塩ですっきりして内陸部に入った。時計は、ほぼキロ6分を刻んで予定通りのランである。  20キロ付近で名古屋の井上さんに追い付かれたが、並走を諦め先行してもらった。まだキロ6分を維持している。調子がいいのか悪いのかが判然としないまま典型的な北海道らしい牧場地帯を走る。
30キロ辺りから急に足が進まなくなり体調があやしくなってきた。
40キロを越えて本格的な丘陵地帯に入る。きつい登りが辛くなってきたが、まだ体力は耐えている。
やがて45キロ付近、後方のランナーが“足取りが乱れていますよ~”と声を懸けてくれた。タイムはキロ6分を越えている。しかし、自分では“これが サロマの苦しさだ・・・”と自分に言い聞かせて長い登りに取りついていた。
SAROMA やがて50キロ付近の登りで走友芥川さんが追いついてきて、“ taku さん、体が揺れてるよ~!”、間もなく“takuさん、ふらふらしてるよ~”と声を懸けてくれたのは走友の橋本さんだった。“やっぱり本物か~!”

4年ぶりに挑戦したサロマ、こんな情けない姿は考えていなかった。 中間点の緑館まで延々と続く登りのきつさから、その先の50キロを走り切れるかどうかの決断をしなければならなかった。やがて55キロの緑館、一足先に到着していた橋本さんが心配そうな顔で待っててくれた。“ 無理かも・・・?” の声を聞いて“そうか、止めよう・・・!”


4年ぶりのサロマで何という屈辱的な終わり方だろう! 苦しい練習の中でいつもあのゴールの晴れがましい瞬間を思い描いていた毎日だったが、何時とり付かれたのか目に見えぬ微小な伏兵に大の男が屈服する無念さが全身を駆け巡った。
力なく着替え、屈辱の象徴みたいな収容バスに乗り込む時の足の重さ、既に 乗り込んでいた面々の隙間に腰をおろした。ゴール地点へ向かう車窓からは、手の届きそうな側道を夏の陽を一杯に受けて誇らしげに走るランナー達の姿を見せられるのは、まさに拷問そのものであった。
目に見えない程の損傷さえも許さないサロマの厳しさ、これが“聖地”と言われる所以だろうか。再挑戦の夢は眼下に広がるサロマ湖の彼方に消えた。



ラップタイム(ネット)
10Km 20Km 30Km 40Km 50Km
1:01:51 0:57:14 0:58:42 1:14:35 1:19:53



SAROMA
2003.6    
横浜中央走友会 山本 卓


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