TITLE

【奥の細道】を走る  松尾芭蕉の足跡を辿って  255Km  2009年

HOSOMITI

“ 鮎の子の しら魚送る 別れかな ”



HOSOMITI

まえがき
日本縦断、本州横断、北海道横断とレースを離れて大自然の中を終日走りつづけて数多くの感動を味わったシニア・ランナーが、いまだ捨てきれない野の道の誘惑に抗しがたく、かねてから温めてきた俳人松尾芭蕉の“奥の細道”を辿るランに行きついたのは必然であった。芭蕉が門人曾良をお供に遥かな みちのくの旅 に出たのは今から320年前の元禄2年(1689年)3月27日であった。その時代、江戸と京を結ぶ旅人が多かった中に、その流れに背を向けて芭蕉を みちのくの道(未知の道)に向かわせたのは何だったのだろうか。わずか17文字の中に秘められる日本人の深淵な心の在り方に接するとき、現代に生きる者としてその心の奥に秘められた芭蕉の想いの万分の一にでも触れられれば・・・と思ったのがこのランの原点であった。


第1ステージ   その1 千住~幸手

期日:2009.3.20
走区:千住~幸手
距離:39Km
走友:吉富秀子

“月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり・・・” 奥の細道 の冒頭の 一節に続く “予もいずれの年よりか、片雲の風に誘われて漂白の想いやまず・・・”
HOSOMITI この一節にわが身もまた永年温めてきた遥か北の空への想いを募らせていた。これまでのウルトラランはその日の宿までひたすら走り続けることが目的であったが、この度のランはあれこれの資料を集め、句集を読み、これまでとは全く違った心の準備が必要だった。かくして、3月20日、意を同じくする走友吉富さんと今にも降り出しそうな南千住駅に降り立った。都心を遠く離れた北への玄関口はひっそりと雨雲の中に沈んでいた。
HOSOMITI 地図を頼りに探し当てた千住大橋は巨大な鉄骨の塊であった。芭蕉が渡ったであろう質素な木の橋へのノスタルジーが崩れて否応なく現代の世界に引き戻されてしまった。 しかし、橋のたもとに立てば、そこは紛れもなく320年前に芭蕉が後ろ髪を引かれる思いで旅立ったその地であった。橋のたもとには其のことを記念して “奥の細道 矢立て初めの碑” が建てられている。
千住大橋は芭蕉が渡る100年も前に徳川家康によって隅田川に架けられた最初の橋である。
HOSOMITI芭蕉は江戸深川から舟で隅田川を遡って千住で降りている。
しかし、識者の間では、芭蕉は左岸(南千住)に降りたか、右岸(北千住)に降りたかが議論の的となったらしいが、ここはやはり南千住側に降りて大勢の見送りの人を振り返りながら橋を渡って旅立った芭蕉の姿が似つかわしいのではないだろうか。 ここには“奥の細道”の一節、「千じゅというところより舟をあがれば前途三千里のおもいむねふさがりて、まぼろしのちまたに別離の泪をそそぐ。
“ 行く春や鳥啼き魚の目に泪 ” 」 の碑が建っている。


HOSOMITIHOSOMITI我々もここをスタート地点にする。8時40分。 千住大橋を渡れば北千住である。旧道は4号線 と平行してどことなく街道筋の面影を残す静かな商店街へ入る。 旧道の入り口に 「千住宿 奥の細道 プチテラス」 という記念像が建っている。 この一角には旅立ちの情景をにじませるあれこれの像や碑が多く建てられていて芭蕉一色の感がする。
このプチテラス一帯は克っての千住宿のあったところで江戸を出てから日光街道や奥州街道での最初の宿場である。 遠出する旅人がその先の旅に思いをはせて最初の夢を見たところである。 ここ千住は「奥の細道」に係る歴史の伝道者として地元の有志による地域を挙げての保存事業が数々の実績を掲げて各所に思わぬ像や碑が建っているのがうれしい。
HOSOMITIその一角に道中2400キロ の行程を表示した「おくのほそ道 行程図」 が建てられている。それによると、一行は千住を旅立ってから4日目で日光に到着していることが示されている。日光までは現在の旧道距離で約140キロである。あの時代の道路の事情から考えても一日35キロを歩いたその健脚ぶりは驚きである。芭蕉46歳。 それに引き換え、我々は走って4日の予定、情けない!雨の日曜日、下町の朝はまだ時計が止まったように静かだった。都心の猥雑さが嘘のような街に迷い込んだ眼には今にもその街道筋の賑わいが繰り広げられそうな郷愁を感じさせる風情である。9時、ぽつり、ポツリと店を開ける音がしてようやく今様の一日が始まった。

HOSOMITI HOSOMITI今日の我々は目的地幸手までの40キロを走らなければならないのに、スタートから江戸時代にタイムスリップした世界に迷い込んで、あっちの碑文を読んだり、こっちの 像を眺めたり、往時の面影を残す古い建物に感嘆したり・・・。 今日のノルマの達成が怪しくなったが、まあ 夕方までには着くだろう と腹を決めて折角の機会にどっぷり浸かることにした。
走ることを忘れて街道筋に見え隠れする江戸時代を探すのは何んと贅沢な宝探しだろう。 まだ見ぬ みちのくの地 へ不安と喜びを背負っての旅は芭蕉翁生涯の最も長い吟行であった。 その想いを後世に残そうと保存に努めてくれたお陰で今我々が静かに往時を偲ぶことができるのが幸せである。
HOSOMITI千住はかって近郊から江戸へ供給する野菜の集積地であり、今もその繁栄の名残が数多く残っている。当時、野菜の商いの場所であった青物市場を地元では「やっちゃ場」と呼んでいた。この呼び方は「野菜場」から転化してきた言い方ではないだろうか。秋葉原にあったの都の野菜市場もかっては野菜部門を「やっちゃ場」と呼んでいたと記憶しているので、この言い方は普遍的な言い方かもしれないが、なんとなく実感が湧く呼び名である。
千住の商店街の南北200m位がかっての「やっちゃ場」で、その区域の両端に夫々「やっちゃ場南詰」、「やっちゃ場北詰」のいかにも時代を偲ばせる大きな案内板が設置されている。この南北詰所の間の両側にかっての青果商の店跡が「元青果商・・・屋」や「元川魚卸・・・屋」など屋号の木札を掲げて沢山残っていて往時の繁栄ぶりが偲ばれる。 宿場町の雰囲気の残る貴重な街道筋である。

HOSOMITIHOSOMITIHOSOMITI


さあ、先を急ごう。 商店街のさらに先には江戸時代から紙問屋を営んでいた横山家の風格のある住宅が健在である。この家の説明板によれば、幕末の騒動の際に彰義隊に切りつけられた刀傷の残る柱や、戦中、不発弾に射抜かれた天井の穴などが残っているという。その先には、江戸時代から有名な接骨医だった名倉医院の風格ある建物も健在である。

HOSOMITIHOSOMITI



さあ、本論に戻ろう。 ふと気がつけば我々は今朝からまだ1キロも走っていない。みちのくの旅の玄関口ですっかり旅行者になってしまった。 先を急ごう。
HOSOMITI千住の日光街道は直進して荒川の土手にぶつかる。芭蕉の頃はまだ荒川はなかったのでこの道をまっすぐ歩いたのだろう。この付近の荒川は隅田川の洪水を防ぐための放水路として大正時代に現在の鹿浜橋付近から開削されたものである。土手に登ると広々とした河川敷が広がり、先ほどまでの宿場町の風情が一変して現代の情景に変わってしまった。長い千住新橋を渡って足立区に入る。  橋を渡った旧道は直進する国道4号線と別れて日光街道として左に大きく迂回して北に向かう。旧道とは言え、拡幅工事のため道の両側にあったであろう多くの貴重な史 跡が失われたのは「古きもの」と「新しきもの」の融合がいかに難しいかを示す宿命的な現実である。街中の一般道には芭蕉の面影は何処にも見ることが出来ないまま西新井大師で有名な西新井を過ぎ、竹の塚を経てようやく草加市に入る。久し振りに約9キロのラン。 草加と言えば何がなくても草加煎餅である。
HOSOMITI 道の両側にいかにも由緒ありげな煎餅屋さんが次々と現れる。 中でも意外と現代風の店を見つけたので覗いてみた。美味そうな煎餅が綺麗な包装に包まれている。
吉富さんの目が嬉しそうに輝いている。そろそろおなかが空いてきた時だったので堅焼きの煎餅は美味かった。ぼりぼり煎餅を食べながらの珍妙な道中であった。 道の反対側に「草加と煎餅」との係わりについての大きな説明板が建てられていたが遠くて読めなかったのは残念であった。 たぶん、煎餅は旅人にとっての携行食として考えられたのではないだろうか。軽くて、腹もちがよくて、傷まないという携行食に最もふさわしいものだから。旅人はその先の不案内からまずは食料の確保として煎餅を沢山背負って行ったのではないだろうか。この道中記はスタートしてまだ10キロ位なのにもう6ページにもなってしまった。いかに史跡探訪とは言え幸手までまだ30キロある。 さあ 行こう。

HOSOMITI HOSOMITI 草加は芭蕉が最初の宿をとった所と言われているが、お供の曽良の日誌によると最初の宿は粕壁(現春日部)となっている。距離的には千住から26キロの春日部の方が正しいかも。 やがて風情のある灯篭を備えた伝右川の橋の向こうに望楼が見えてきた。札場河岸公園である。 綾瀬川に沿って長い松並木が続く。公園の入り口に芭蕉の像が建っている。 このランで一番楽しみにしていたご対面である。見送りに来てくれた人たちを振り返りながら前途遥かな旅への不安と惜別の想いを込めた姿が新緑の中に佇んでいた。

  “ 弥生も末の7日 明けぼのの空ろうろうとして、
          ・・・・人びとは途中(みちなか)に立ちならびて、
                    後かげのみゆるまではと見送るなるべし“  


HOSOMITI旅立ちの場である。
それ以前、この辺りは一面の葦の生い茂る湿地帯で旅人は難儀を極めたという。見かねた幕府が沼地の造成をして現在の日光街道を通した。その時道の下地に膨大な量の葦を敷き詰めたのが現在の「草加」の地名の起こりと歴史の解説板が伝えている。
草加もまた歴史を大切にする多くの市民の協力により数々の史跡が整然と保存されている貴重な財産である。
綾瀬川に沿って続く草加松並木は1683年芭蕉が歩く数年前に綾瀬川の改修に際して植えられたもので、日本の道百選に選ばれた1.5キロの美しい道である。
松の間に御影石に掘られた「日光街道」の立派な石標が午後の太陽を背に受けて重々しく鎮座していた。

HOSOMITIHOSOMITIHOSOMITI


松並木を外れて旧道は4号線に戻る。
HOSOMITI4号線は日光街道としてひたすら北を目指す。この道も幾度か拡幅を続けて、その都度貴重な史跡を消してしまったのだろう。道中、芭蕉につながるものが何も見られなかったのは寂しい。 JR武蔵野線をくぐりやがて越谷の市内に入る。ここはかっての越谷宿で本陣、脇本陣が数多く置かれていたが今はその面影は何処にも見られない。街中で元荒川を渡り、バイパス4号線をくぐって春日部までの7キロを急ぐ。
この付近では緑に出会えるかと期待していたが、すっかり開発されて都市道がつづくばかり。 田舎道を走りたい!
HOSOMITI やがて春日部の標識をくぐる。今回の目的地幸手まで残り14キロ。陽はだいぶ西に傾いてきた。 雨を覚悟してスタートしたが、いつの間にか雲が去って快晴の空が広がっていた。
市内を抜けた旧道が国道4号線と合流するあたりに東陽寺というお寺がある。このお寺には芭蕉が泊まったという言い伝えがあるという。 さらに進むと日光道中粕壁宿の説明板があり、これによると「粕壁宿は元和2年(1616年)千住宿より4番目の宿場と定められ、寛永13年(1636年)日光東照宮が完成し、日光詣での諸大名の逗留で大いに にぎわった」 とある。今はその面影はほとんど見られない。
 粕壁(春日部)の旧道には、いかにも歴史を偲ばせる建物があちこちに残っている。これらの建物は築200年を超えるものもあると云うが、その造りは現代の華奢な木造建築に比べ、その堅牢さと幾何学的な優美さにおいて圧倒的な重厚美を感じる。木造にしても石造りにしても、先人は現代の科学を先取りする正確な知恵で数百年の風雨に耐えるものを現世に残してくれた。我々には、先人のすぐれた技巧を継承する責任があるのではないかと古い建物を見るたびに思った。

道はやがて古利根川を渡って杉戸町に入る。 杉戸もかっての宿場である。
陽はだいぶ西に傾いて影が長くなった。
HOSOMITI HOSOMITI 杉戸町を過ぎるとあと7キロで目的地 幸手 である。時刻はもう3時を過ぎている。 吉富さんは疲れも見せず快調に走っている。 やがて待望の幸手市に入る。長い一日だった。
4号線は大きく孤を描いて小山、宇都宮を目指し、旧道は幸手市内へ向かう。 今日の一日、いつものひたすら走るだけのロングランから抜け出して、ともすると走るのを忘れてしまいそうな寄り道ランであった。新しい走りのジャンルを見出した思いである。 走りながらふと思った。芭蕉翁が歩いた道は、唯踏み固められた土の道で、たぶん、今風に砂利や砕石を敷き詰めたものではなかっただろう。 とすれば、履いた わらじ は路面にしっかり馴染んで今風の革靴とアスファルトの組み合わせよりずっと歩きやすかったのではないだろうか?  行きかう人もなく、ましてや車の恐怖も考えずひたすら野の道を行く二人連れの旅は、堅い舗装と車の恐怖におびえながらの現代の我々よりは余程 贅沢な旅ではなかったかと思う。

HOSOMITI     HOSOMITI

午後5時、幸手駅ゴール!。 走行距離 39キロ。 芭蕉の一日目は粕壁(春日部)であった。歩いて30キロの芭蕉と走っての39キロのわれわれ。320年前と現代、はたして我々は進歩してきたのだろうか?  大きな疑問符が付く細道初日であった。

HOSOMITI
横浜中央走友会 山本 卓


BACK


HOME