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【奥の細道】を走る  松尾芭蕉の足跡を辿って  255Km  2009年

HOSOMITI

“ 鮎の子の しら魚送る 別れかな ”


HOSOMITI

第1ステージ   その3 小金井~日光
  期日:2009.5.3~4
  走区:小金井~日光
  距離:62Km
  走友:吉富秀子

【5月3日】
連休前半の快晴も、ついに息切れして細道を辿る予定日3,4日にはとうとう天気予報に傘マークだ出てしまった。雨雲の様子ではあまり激しい降りにはならないだろうと、文字通り運を天に任せて6:41am東戸塚発宇都宮行き湘南新宿ラインに乗る。
HOSOMITI横浜駅で走友吉富さんと合流、前回のゴール地小金井まで早朝の2時間の旅が始まった。関東平野の南の果てから北の果てまで乗り換えなしで行かれるのはありがたい。 車中、今回のルートや、寄り道先のあれこれ、まだ見ぬ日光の杉並木など、少々の緊張と沢山の楽しみを抱えながらも、無事に走り終えたいと電車の揺れに身を預けての2時間であった。都心を離れて電車は北関東の一面の緑の中を走っている。先回この電車に沿って長い道を走ったが、両側の家並みに遮られて緑は殆ど見えなかった。道路と線路の機能の差がこんな風景の差になっているのを今更のように知った。
8:45am 予定通り小金井駅着。 さあ、待望の日光への道、どんなランになるんだろう。 吉富さんも少々緊張気味に準備している。通りがかりの人に写真を撮ってもらって準備完了。
人通りのない日曜日の朝9:15分スタート。 国道4号線を北に向かう。今日の最初の目的地大神神社(おおみわ)の「室の八嶋」を目指したが、街を外れた直後の左折を見落として直進してしまい、笹原から左折して壬生町経由となってしまった。朝一番の失敗であった。 国道を離れての壬生道はようやく静けさを取り戻して緑の世界になった。
HOSOMITI突然、大きな木と塚に出会った。 小金井一里塚である。これまであちこちに塚の址を見てきたが、それらは所在を示す表示板や表示柱が多く、この様に歴史の証人のような老木が残っている塚は初めての出会いだった。この道は、壬生を経て日光に続く重要な街道であったが、現在の幹線を外れているために、開発の手を逃れて昔の姿を残している貴重な歴史資料である。 ようやく、“奥の細道” の雰囲気が濃くなってきた。
道の両側に緑が多くなって、これまでの無機質な世界から癒しの世界に変わったような気がする。この道筋に多くの史跡や遺跡が点在しており、現在と過去が共存している不思議な風景である。 右に左に、それらを見たり読んだり、何とも贅沢なマラニックである。

この何年か、あちこちの田舎道を走り続けたため、道路標識の距離表示に怖さを感じなくなってしまった。
HOSOMITI鹿沼23キロの表示も、明るいうちには着くだろう・・・と ちょっと隣町に行くぐらいの気楽さである。 間もなく、菜の花が一面に咲く広大な畑地帯に入った。 久しぶりに大きく開けた空間に吉富さんも歓声をあげての大喜びだった。 この開放感はリュックを抛り投げて道端に大の字になって寝転びたい・・・そんな思いにされる。
今日もやっぱり足が先に進まない。 まあ、夕方には着くだろう。
HOSOMITI 気を取り直して長閑な一本道をのんびり走る。 北海道の大平原では、走っている速さと距離の感覚が覚束なくなり、キロ8分や9分になっているのに気がつかず慌てたことを思い出したが、今日は仲間がいるので自分の走るペースを確認できるのがありがたい。心配した雨も降らず、薄陽さえ指すようになった長閑な田舎道である。 やがて家並みが少しずつ混んできて壬生町に入った。 何の変哲もない町並みなのに平安時代にすでにその名が知られていた。 歴史の語り部はこの町の何を語り伝えているのだろう。 東武鉄道の下を左折して大神神社を目指す。出発直後に道を間違えたため、逆行することになった。途中、地元の人に道を尋ねて大神神社は“おおみわ”と呼ぶことを知った。壬生の町から3キロぐらいである。
HOSOMITI途中、大きな川を渡る。 「 思川 」である。広い河原に浅い川床を見せて文字通りの清流であった。誰が何を思ってつけた名前なのだろうか。これにもまた深い歴史が込められているような気がする。
周りに人家もなく人影も全く見えない。 と云うことは、この景色は320年前芭蕉が見たと同じものか! これまでは芭蕉に係る句碑や像を見て間接的に芭蕉を感じてきたが、この「思川」の眺めは320年という時間を隔てて直接網膜に焼き付けた風景である。 走っていればこそ巡り会えた貴重な瞬間であった。 感動!

芭蕉は我々と対面するように渡ってきた。 曾良の日誌によるとこの橋は素朴な仮橋だったという。
“奥の細道”の中では、芭蕉は「室の八嶋」については何の記録も残していない。
とは言え、芭蕉がこのみちのくの旅を思いついたのも、遠く平安の時代から歌枕として語り継がれてきた「室の八嶋」を訪ねたいという切実な願いも大きな動機であった。
HOSOMITI 何故芭蕉は何も残さなかったのだろう。 識者の説によれば、折角訪れた「室の八嶋」の実際の景観が余りにも期待はずれであったためだろう。ということであるらしい。 芭蕉は何を期待していたのだろう。 お伴の曽良が「室の八嶋」の謂われを芭蕉に説明していることだけが残されている。  現在の大神神社は広大な杉の木立ちの中に建立されているが、周辺がすっかり畑に囲まれてこの由緒ある神社を尊ぶ雰囲気が薄められているのは残念であった。 さらに、この日、我々が訪ねた時は地元の方たちによる骨董市が開かれていて、境内は大勢の人たちで埋め尽くされていたので、 残念ながら静寂な神社の雰囲気を味わうことはできなかったが、人が退いた後は静寂な杉木立に囲まれて往時の姿に引き戻されるのだろう。
日本人の心の故郷とも云うべき幽玄な世界に回帰する瞬間である。境内の一角に芭蕉が残した唯一の句を刻んだ碑が立っている。

   “糸遊に 結び付きたる けぶり哉”

HOSOMITI 「糸遊(いとゆう)」 は陽炎(かげろう)のことであり、「けぶり」は煙のことである、とのこと。曽良が芭蕉に「室の八嶋」の謂われを説いているが、どうも、糸遊と八個の島の関係がよく判らない。 芭蕉もあまり理解出来なかったことが、道中記に何も残さなかった理由かもしれない。しかし、消え入りそうに薄くなったノミの跡が却ってこの句の重みを感じさせて、ひさしぶりの大きな収穫であった。 それにしても、古く平安時代からこの地で崇められてきた神社が今の時代に惹きつけていることを考えれば、文明と心の問題は時間を超えた時限のものであり、日本人が日本人である限り持ち続けていく個性なのだろう。

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大神神社に思い描いていた光景が少々期待外れだったのが残念であったけど、目的を達したという安堵感でランに戻る。 来た道を壬生の町に戻り今日のゴールの鹿沼までの17キロ。 途中 思川 を渡り返して壬生駅に出た。 駅前の通りには古い家がまだ残っていて、この辺がかっての壬生宿の跡なのだろう。
やがて、城址公園 の表示がある。壬生城の城跡に歴史民俗資料館他の施設が建てられているが残念ながら休館日。日曜日なのに休館は珍しい。あちこちの町に歴史資料館などがあったが、壬生のように道筋にあるのは珍しく、折角の出会いも残念であった。壬生の周辺には沢山の古墳や史跡が点在しており、この平坦な何の変哲もない土地に見えるこの地にこのような遺跡が残るほどの繁栄があったのだろうか。今の平穏な田園の姿からは想いが至らない。
HOSOMITI HOSOMITI 壬生城の本丸跡や再建された二の門の風格のある重々しさから、往時の城郭の持つ権威の象徴がみてとれる。 走りながら、あれこれ、あちこち、目移りしてなかなか鹿沼が近づいてこない。
緑の道が続く。やがて、道の左奥、畑の中に小高い塚が見えた。 前方後円墳かな?何か謂れのありそうな塚の表示板が建っている。吉富さんと畑の中のあぜ道を不法侵入。高さ5mぐらいの塚の上に咲き終わった桜が一本周りを睥睨するように見下ろしている。
判官塚古墳。 誰のお墓だろう。 そこに行きつく道もない畑の中に表示板だけがひっそりたっていた。 義経が平泉に逃れる際、追手を避けるためにこの塚の穴に隠れたという伝説がある そうだ。このシリーズは、敢えて古さを求める趣旨でもあり、これまで多くの古さに出会ってきた。それらとの出会いは数百年という時間差との出会いでもあり、目の前に厳然として存在する古墳や塚は往時を辿るロマンの泉である。
今回のステージは、寄り道を前提にして一日の距離を3,40キロと余裕を持たせたつもりであったが、実際にあちこちの寄り道で、もっと時間が欲しいと思うことが多かった。今夜の宿という制限のために意半ばで去らなければならなかったのは残念であった。 このような旅は、キャンピングカーに寝泊まりするのが一番充実するのではないだろうか。

少し進み北関東自動車道をくぐると 稲葉の一里塚 が大きな木陰の下に残っている。江戸日本橋から24番目の塚で東京から約100キロである。昔は松が植えられていたという古文書が残っている。現在の姿もいかにも塚らしい風情で、往時旅人が木陰で疲れを癒している姿を思い起こさせる。
HOSOMITI 一里塚は一里約4キロごとに設けられた距離標識であると同時に、人足への給金の支払い基準距離でもあった。歩き疲れた旅人には、遥か先に見え隠れする塚の大木を見つけてどれほど元気付けられたことだろう。
北海道横断ランの時も気の遠くなる様な一本道の彼方に見つけた一軒家がどれほど嬉しかったことか。 廃屋であっても人間社会に戻ってきた喜びは何物にも代えがたい気力を呼び戻してくれた。 横浜の我が家の150mぐらいの所に旧東海道・品濃一里塚が細い 街道の両側に大きな木に囲まれて残っている。道の両側に対で残っているのは旧東海道でこの品濃塚だけ と説明されている貴重な史跡である。 昔の旅人はこの一里塚を、いくつ越えて一日を終えたのだろうか。 ゆっくり周りの風景を目に焼き付けての旅、早ければ良しとする現代の旅に比べ、遥かに贅沢な旅であっただろう。
HOSOMITI 近くに明治の初期に自由民権運動の先駆者として活躍した「鯉沼九八郎」の石碑が重々しく建てられていた。又、この近くに「金売り吉次の墓」があるはずなのに見つけられなかった。吉次は源義経を奥州藤原秀衡のもとに送り届けた豪商であり、お伴の曽良の日誌にも「壬生より半里ばかり行きて吉次が塚右のほう二十間ばかり畠中にあり・・」 と記されている。 この辺り、史跡の宝庫である。
道は東北自動車道をくぐり楡木に入る。ここで、壬生道は日光例幣使街道と合流する。例幣使街道は、朝廷の使者が日光東照宮に参内するときに歩いた街道である。朝廷の使者を例幣使と呼んだのだろうか。 重々しい呼び方に往時の東照宮の権威の高さが偲ばれる。 町はずれに大きな杉の木が街道の主のように旅人を見下ろしている。 このシリーズ最初に見る杉の巨木で威厳に満ちている。いよいよ日光の杉の世界が近くなった。 道の左側を東部日光線が並行して走っている。時折通りかかる電車の乗客も日光詣でだろうか。
沢山の付加価値をもった我々の投資効果は電車の客の何倍だろうか。

少しずつ家並みが混んできてゴールの鹿沼が近くなったことを知る。
HOSOMITI 街並みの中に「ゆば(湯葉)」の老舗があった。建物の造りは新しいが、構えは昔のままで何とも風情のある店である。 今の時勢、ゆば がこれほどの店構えで商売ができるのは老舗の貫録と云うべきか。
そして間もなく、またもや古い店が現れた。築何十年だろう。
HOSOMITI三村屋履物店、 商品は 地下足袋、田植え長、セッタ などなど。芭蕉もここで草鞋を買ったのだろうか。 売ってる物と店の姿、格好が実にマッチしていて、まさに歴史の証人である。   吉富さんのたっての希望で写真に収める。
このシリーズ、古きを訪ねる趣旨となれば、この二葉の写真は願い通りの貴重な記録となった。 時間が止まって日本人の心の原点を見る思いがした。走っていればこそ出会えたこの風景は、このシリーズの目的が叶えられた嬉しい証しでもあった。
陽は大きく西に傾き一日の終わりが近い。 大神神社を経て日光を目指した芭蕉も宿は鹿沼であった。 しかし道中記にも、曽良の日記にもこの辺りの記述がほとんど見られない。 ことさら書き残すこともない野の道だったのだろうか。
時を経て様相を一変させた野の道に芭蕉の影を探してとぼとぼと走り続けてきた我々の“奥の細道”は、古色蒼然とした老舗の重みに、時代の匂いを感じさせてもらえたことで、その一端を共有出来たような気がして嬉しい。
HOSOMITI夕暮れの町はずれに「北赤塚の一里塚」がひっそりと残っていた。江戸から25番目の塚である。存在を示すには余りにも質素な表示の杭がわびしい。対の塚は道の拡張で削られたのか見当たらなかった。頂の古木は過ぎ去った時間の長さを教えて呉れるかのように懸命に春の葉を広げようとしていた。
それにしても、この道中、いつの間にか文明の明かりを避けて古いものを感知するセンサーが鋭敏になり、大きな木が茂る屋敷跡や、古びた神社など、周りの現代風の家並みの中に挟まって、静かに時の移ろいを見守っている風情に日本の原風景を見る思いがする。 芭蕉もこの古木の木陰で一休みしたのだろうか。
320年経った今、芭蕉と同じ目の高さでこの塚を見ていると思うと時間とは何なのだろうと考え込んでしまう。

今日一日のラン、あちこちの寄り道と仲間がいるという気持のゆとりのせいか、思いもかけず僅か30キロに8時間もかかってしまった。それほど足を止める所が多かったということかもしれない。 ようやく鹿沼の市街地に入って一日が終わろうとしていた時、今日最後の足止めに遭遇。  「私の美術館」 大きな敷地の中の個人のギャラリー。
HOSOMITI 人影もない庭先に不法侵入、ギャラリーらしい雰囲気もない普通の住宅の奥にそれらしい建物が現れて、犬の吠え声に気がついたご主人が現れた。 小林一行さん。 個人のアトリエ兼ギャラリーである。 今日最後の客を快く迎えてくれて絵を見せてもらった。 室内には2mx3mぐらいの大きなキャンバスに気の遠くなる様な緻密な筆先で描いた人物画や同じタッチの風景画などに交じって、6号か8号ぐらいのサイズの水彩画を書いたものなど、技法が全く違う絵を描き分ける意識の切り替えの完璧さに驚いた。そんな話をしていると奥様がコーヒーを入れてくれて、走りつかれた喉には何よりのご馳走であった。 都会を遠く離れた小さな町で独り己が道を究めている姿は若々しく輝いていた。 夕暮れの道に戻る。 今日のゴールまであと2キロぐらい。久し振りの街並みの中を走る。 今日一日、走った距離の割にはとても長い一日だった。 独りランの時は不安と緊張で寄り道も休憩もあまりできず、ひたすらゴールを目指していたような気がするが、話し相手がいると、つい時間がかかってしまった。 レースでないランの楽しさの形なのだろうか。
HOSOMITI 大きな建物もなく往時の鹿沼宿を偲ばせる街並みが続く。鹿沼宿は街中の二本の通りに宿を配置し、宿場機能を交互に交替していたという珍しい宿場であった。 朝から心配した雨も何とか逃げ切って、午後6時鹿沼の宿にゴール。長い一日だった。これまでのランにもまして、道中に沢山見られた古墳や塚など、いかにも“奥の細道”らしい史実や風景が時間を忘れさせたのだろうか。 相客もいない広い風呂にどっぷり浸かって頑張った足を労った。 日曜日は宿の夕食がないので外に出る。
日本酒党だった吉富さんが突然ビール党に変身して先ずは、一日のご苦労さんに乾杯。北海道を走り終えて、さて次は・・・? とっさに思いついたのが“奥の細道”だった。2400キロのまだほんの入口だけれど、見果てぬ夢をとぼとぼ追いかける姿を話しながら何本目かのビールを空にしていた。


【5月4日】
昨日の疲れと程よいアルコールで熟睡。 目覚めの空模様は矢張りどんよりと曇り。雨がなければ曇りの方が走りいい、と負け惜しみを言いながら8時出発。
今日のコースは旧例幣使街道(121号)沿いの歩道が板橋で途絶えるので、やむなく方向転換し、大沢に抜けて日光杉並木街道(119号)を日光に向かうことにする。 距離33キロ。
HOSOMITI宿からコースへの途中に「屋台の町中央公園」があり、その中に芭蕉の句碑がある。とのことで早々の幸運を喜んだが、残念ながら時間が早すぎて開門されておらず見ることができなかった。
街の外れで「くろかわ」を渡る。この先はJR日光線に沿って延々の一本道が続く。 川を渡った所から、このシリーズ最初の登り道になった。 これまでは周辺を見渡してもひたすらのまっ平らであったが、流石に日光が近くなって、山が姿を現してきた。久しぶりの山である。緩やかな登りを終えて台地に出ると、そこには杉並木の前兆が見えていよいよの感がする。
高原の道は緑に覆われて広い歩道が快適である。吉富さんも体調万全のようだ。
一帯は広々とした畑作地帯で静かな朝である。都会では通勤ラッシュの時間なのに、ここでは動くものは我々だけという別世界を独り占めしている。
HOSOMITI 鹿沼と言えば、「さつき」。 全国的に認められた花の名産地である。家々の庭先も、歩道の両側も満開のさつき で覆われている。 レースの途中では決して味わえない癒しの瞬間である。 満開のタイミングもラッキ~だった。 マラニック万歳!
さつき は水捌けのいい所が適地とされるが、鹿沼は「鹿沼土」で知られる園芸用の土が花と並んで有名である。赤城山の噴火で噴出した火山灰を精製して園芸用に市販されている。その精製場が道の左右あちこち見みられた。 黄色い土の山がきれいだった。 この土にしてこの花あり!吉富さんも満開の笑顔だった。 走り疲れた時、道端の花ほど癒されるものはない。その先を捨てて大の字に寝転びたくなる不思議な力を持っている。これまでの道中、古いものばかりを探していたので、久し振りに満開の花を見てふと我に還ったような気がする。
街道の杉の緑と さつき の赤の原色同志が強烈なコントラストで競っている。 平和な山里の春である。 右手、少し低い所をJR日光線がのんびり追い越して行った。

HOSOMITI 間もなく、 日光18キロの標識。 まだ18キロも楽しめる。 いや、もう18キロで終わってしまう。 苦しいけど、このほうが切実な思いがする。 苦しさを楽しめる体調に感謝。 道端に見事に咲いた花を見つけた。 紫陽花を直径5センチぐらいに縮めたぐらいの大きさで、ふっくらした感じが何とも心やさしい思いのする花であった。 華道修行中の吉富さんが、何とか云う名前を教えてくれたけれどメモするのを忘れてしまった。 こう云う道草が楽しい。
それにしても、 これまでのランと何かが違う!と思いつつ、それが何なのか気がつくまでずいぶん時間がかかった。 それは山が近くなったこと、と大きな杉が見えることだった。 これまでは、関東平野の北の果ての平坦な土地で、およそ山の雰囲気などを感じる場面はなかったが、流石日光の山並みが杉の木立ちの陰に見え隠れするようになって、いよいよ日光近し!を思わせる風景になった。 道は例幣使街道に沿って一段高いの遊歩道となる。
杉の落ち葉の道は柔らかくて快適なランである。
やがて、日光市の境界標識が立っていて、ついに日光東照宮の領域である。
HOSOMITI 街道脇の杉の巨木は樹齢400~500年と言われている。これらの杉を現在の車道の道幅で植えたのは、当時の東照宮詣でがいかに尊大なものであったかの証であろう。
鎮守の森という言葉に表されているように、日本の社寺仏閣は深い木立の中に建立されていることを考えると、神、仏は森に代表される自然界との融合として日本人の宗教観を形成し、その表示としてこの杉並木を創設させたのではないだろうか。 整然と立ち並ぶ杉の巨木が続くこの道を芭蕉も歩いた。今、同じ道に踏跡を重ねている自分に不思議な思いがする。 密集する枝で光が遮られて道の先はほとんど見通せない。
旅人たちも、この昼なお暗い木立の道をひたすら東照宮を目指したのだろう。
それにしても、車道を猛スピードで走る車の中からは、この並木の姿はどう映っているのだろうか。文字通り一過性の映像で、漠然とした記憶にしか戻れない寂しい旅人たちかもしれない。
ランナーにとっては、遥か先に見えたものが次第に近づいてきて、やがて後ろにゆっくり消えていくこの時間の間中網膜に焼き付けてしっかり保存されるので、わずかなヒントでその旅の全容を詳細に思い出すことができるという大きな喜びをもっている。

HOSOMITI 杉の木立の中に 「杉並木寄進の碑」 がひっそり建っている。これは松平正綱が東照宮に約20万本の杉を寄進したことを示す碑で、例幣使街道、日光街道、会津西街道の三か所に建てられ、これから先は東照宮の神領とする標識になっている。
旅人たちはこの並木を見て長かった旅の苦労が報われたと安堵の息ををついたのだろう。例幣使街道は歩道もない車道でとても走れない。車道を僅かに離れて一段高い所が歩道である。この道は綺麗に整備された歩行者用の快適な道であった。久しぶりに土の道である。時折通る車の音が幽かに聞こえるぐらいの森閑とした森の道である。 気持ちが休まる文字通りの“奥の細道”で、 このシリーズ初めての野の道である。 本当は芭蕉と同じくこの並木の道をのんびり走りたかったが危険なので止めた。遊歩道には全く人影もなく、静まり返った道に枯葉を踏む我々の足音だけが唯一の音であった。  こんな道をとぼとぼ走る酔狂な人間は我々だけだろう。 杉の落ち葉がクッションになって快適なランが続く。
HOSOMITI 国道と交差して突然遊歩道が途切れ、歩道のない一般道を走らされたり、又遊歩道に戻ったりと忙しいが、僅かな勾配の登り道をひたすら日光を目指す。 周りには人家もあり当然生活道路も必要なはずなのに、見渡しても何処にもそれらしい道は見られない。この歩道もない街道がそれとも思えないので皆さんどうしてるんだろう・・・どうでもいいようなことを考えながら黙々と走る。
杉の巨木で道幅がしっかり固定されている片側一車線の街道は拡幅工事も出来ず、ゴールデンウイークの大混雑を心配したが、なぜか車も少なく静かな街道であった。 この遊歩道を歩いた人は日光の杉並木に憧れて来た人だろうか、我々のように芭蕉の後を辿って来た人だろうか、何処までも続く文字通りの“奥の細道”であった。

HOSOMITI 遊歩道のそばの田んぼで自動田植え機が働いていた。実に精巧な操作で広い田んぼに正確な苗の筋を描いていた。 作業中の田植え機を目の前で見るのは初めてである。吉富さんと感心しながらしばし見とれてしまった。ごく最近までは村人たちが大勢で春の日を受けながらのんびり田植えをしていたのは日本の里山の原風景であったが、現代の技術は雰囲気を一変させた新しい原風景を作り出しているようであった。
道はやがて文挟(ふばさみ)の駅前を通る。ここはJR線が一番近くなる所なのに駅前には人家がなく、土手に咲く満開のさつきが見事だった。近くに「文挟宿郷倉」が昔のままの姿で残っている。これは江戸時代の大飢饉で多くの餓死者を出したことに備えて、村人たちが備蓄用倉庫として建てたもので国の有形文化財に指定されているという。この倉から、当時の「籾」が発見された と説明されている。
近代化された現代の生活の中では想像も出来ない生活との戦いがつい2,3百年前この山深い集落でひっそりと繰り広げられていたことは衝撃的であった。 その日暮らしの乏しい穀物をどんな思いで明日に備えて倉庫に運んだのだろうか。

HOSOMITI この道中、一つひとつが重たい意味を持っている沢山の史跡に出会った。走っていればこその出会いであったが、近代化された喧噪な世に生きる者には、今一度生活者の原点に戻って、今ある自分を見直す時ではないだろうか。大きな杉の木立に囲まれて訪れる人もなくひっそり歴史の移り変わりを見てきた古い建物が静かに語っているように思えた。 遊歩道はいよいよ細くなって、道らしい形がなくなってきた。 杉の落ち葉に幽かに残る踏み跡を辿って慎重に歩く。 それにしても、最初の頃の遊歩道はあれほど綺麗に整備されていたのに、なぜ次第にその姿が消えいるほどに細くなったのだろう。 杉の街道だけを目当ての観光客によって自然発生的に造られた歩道だったのが、やがて歩き疲れて先を諦めた者たちが消えたと同じく道も消えてしまったのだろうか。
HOSOMITI目指す東照宮に続く道であれば、むしろ、より整備されて然るべき、と思いながら落ち葉を踏む音だけを残して先を急ぐ。
道はやがて板橋の交差点にでる。 歩道を失った我々はここから国道119号「日光杉並木街道」へトラバースする。 富士山で云えば、御殿場口ルートの途中から吉田口ルートへ移動するようなものである。 大沢までの距離約7キロ、地元の生活道路で、歩道もしっかりした快適な道を久し振りに気持ちよく走った。吉冨さんは足元のおぼつかない藪道で貯めこんだストレスを一気に吐き出すように気持ちよさそうにぐんぐん飛ばしてあっと言う間に見えなくなってしまった。 ゆったり起伏する長閑な高原は春真っ盛りで、走って素通りするのが勿体ないような風景であった。 でも、吉富さんが遥か先の交差点で待っているので・・・・。

HOSOMITI 途中、「今市 まで7キロ」の標識、いよいよ日光まで残り15キロ。 もう一息。 間もなく国道119号に合流。 さあ、この道を走り切ればゴールである。
少し先で街道は車道と遊歩道に分れて、杉並木の街道はそのまま歩行者専用の遊歩道になり、車道はこれと平行に直ぐ横を走っている。 歩行者専用の杉並木の道は、昔は東照宮詣での将軍が通り、朝廷の使者が通り、そして多くの旅人達が歩いたその道である。 見上げると首が痛くなるほどの杉の老木は歴史の証人の如く道の両側に整然と立ち並んで天下の移り変わりを見下ろしてきたのだろう。
文明の片鱗も見えない古色蒼然とした杉並木は、やはり芭蕉と同じ旅装束で歩くのが一番似つかわしい。
路面はきめ細かな鹿沼土がしっとりと踏み固められていて靴底にピッタリ張り付くようで快適である。
例幣使街道の杉並木は車専用であったが、この道は歩行者専用である。なのに視界に入る人影はまったくなく我々の独り占め状態。 折角のゴールデンウイークなのに、何故この緑の香りを嗅ぎに出てこないのだろう。 都会育ちの人間は生きている喜びの万分の一も知らずに生涯を過ごしてしまうのだろうか。 人影のない杉並木はそのまま時代劇の背景そのものであり、我々は江戸時代の旅人の姿であった。
吉富さんも予ねて念願の杉並木に喜びを満面に浮かべて快調に走っている。
HOSOMITI やがて、街道一の幹回りという巨木に出会った。名前を 並木太郎 という。 すごい! 大人3人では抱えきれない、高さは40mあるという。 圧倒的な迫力である。 樹齢400年を超える巨木の下では我々は小さな人形であった。 これらの木立を見ていると歴史=時間という不思議な関係を納得せざるを得ない思いがする。 それにしても、400年も前にこの地にこれほどの杉並木を造成させた東照宮の権威は今の世に比べようもない高さであったのだろう。家康という時代の寵児にふさわしい遺産である。 やがて今市の市街が近くなった所で杉並木を離れて一般道を走る。時代劇の世界から現代劇へのタイムスイッチである。 何となく思考が定まらない思いがする。

道筋に謂われのありそうな神社や豪壮な建物がみえる。どれ一つにも歴史の深さを滲ませた日本の原風景である。 日頃見慣れているコンクリートの無味乾燥な色合いの対照として、時間を濃縮して醸しだされる穏やかな色合いは周りの緑の中に絶妙な味わいをみせている。 都市化の嵐の中に、いまだ古色蒼然とした日本の文化を申し伝えているこの国の不思議な一面が見える。 時間があったらその故事来歴に触れてみたいと思った。
HOSOMITI道筋に見事な芝桜の絨毯が敷かれていた。 陽の陰った杉並木の道から突然開けた花の世界はやはり現代の色か。古いものと新しいものの取り合わせの妙である。 昔のままの杉並木と直ぐ隣り合って現代の代表とも云うべき立派な車道が並行している構図は、居ながらにして二つの時代を生で体験できる貴重な道筋である。
振り返ってみると、昨日の「室の八嶋」以来芭蕉との係わりが全くないことに気がついた。芭蕉は多分「例幣使街道」を今市に向かったのだろう。 例幣使街道も立派な杉並木が続いているので芭蕉も静まり返っている並木の下をとぼとぼと歩いたのだろう。
芭蕉は室の八嶋で 「あらとうと 木(こ)の下暗(やみ)も日の光」 と詠んでいるが、たぶんこの杉並木を歩きながら、その並木の美しさに感動して 「あらとうと 青葉若葉の日のひかり」 と読みかえて日光詣での句にしている。
HOSOMITI「あらとうと」は現代語訳では「なんと 尊いことだ」 という意味か。
今市の市内で日光杉並木街道(119号)は、今朝別れてきた例幣使街道(121号)と再び合流し、さらに会津西街道、日光北街道とも合流して、ここに東照宮に通づるすべての街道が揃い今市宿の繁栄の基を形成した。
日光北街道はこのシリーズの次回予定している黒羽、白河へ通づる道である。


今市の市内で嬉しい看板を見つけた。 我々の疲れを見透かした如くに造り酒屋の大きな看板。 「日光誉れ」の醸造元である。見学自由、利き酒あり、 となれば日本酒党の我々に素通りする勇気があろう筈もなく、吉冨さんの動きが俄然、早くなって躊躇わず古めかしい門をくぐっていた。
HOSOMITI薄暗い店先、その造りが既に時代ものという感じ。突然現れた汗だらけの客に一瞬びっくりした様子であった。
何代目かの若主人が歓迎してくれて、あれこれ話をしてくれたけれど所詮うわの空。 吉冨さんはもうグラスを片手に待ち構えている。若主人が注いでくれた一杯は干上がっている胃にキリキリと沁み渡って幸せそのものだった。吉富さんの幸せそうな顔は ここまでの苦しさを忘れてしまったようだった。 まさに、寝てる子を揺り起こすような 一杯だったけど、ここはぐっとこらえて残り7キロのランにもどる。 雀の涙ほどの燃料を補充して再び遊歩道にもどる。前後に人影のない並木道は快適であった。

やがて、「瀬川の一里塚」 である。江戸から34番目で136キロ。
東照宮詣での旅人にはこの一里塚が旅の最後になったのだろう。 長い旅が間もなく終わる旅人達の歓びの声が聞こえるようだ。 しかし、芭蕉にとっては、日光はまだ旅の入口であった。 この先、「黒羽(くろはね)」を経て、「白河の関」 を越えた辺りでようやく長途への心の切り替えが出来た・・・と奥の細道に著わしている。
HOSOMITIその証しとして、後世に残る名句のほとんどはこの先の旅の中で詠まれていることがわかる。芭蕉にとって日光までの道筋は長旅のための気力と体力の準備区間だったのだろう。 歩くこと以外に移動手段がなかったあの時代に現代の我々より遥かに頑強な気力と体力をもって何事も無かった如くに日々の行程を消化しているのを見ると、「疲れ」の感じ方、表現の仕方が現代の我々とは原点が違っているように思えてならない。
HOSOMITIやがて、大きな杉の前に 「砲弾打込杉」 という案内板が建っている。これは、戊辰戦争と云われる官軍と幕府軍の主導権争いの戦で東北に追い詰められた幕府軍が最後の交戦をしたときの砲弾が並木の杉に打ち込まれた、その痕を残す と云う貴重な生き証人である。 芭蕉が歩いた華やかな日光詣での道も、幕府の崩壊とともに砲弾の飛び交う戦慄の場となり、人の世の争いに巻き込まれたわが身の不運を嘆いたであろう老木は、今また平和を謳歌している人間の世界の身勝手さを嘆いているかもしれない。
400年の歴史を見下ろしてきた杉の梢に午後の陽が輝いていた。

残り少ない杉並木をさらに奥を目指す。静寂な道である。 振り返ってみる一本道は わずかな勾配で思わぬ高さまで引き上げてくれたことがわかる。
HOSOMITI 落葉樹の森の美しさとは違う背筋をぴちっと伸ばして端正に屹立している杉の姿は、我が身の姿勢も“かくあるべし”と矯正してくれているようで気持ちがいい。 芭蕉が終日歩き続けた「例幣使街道」からこの「日光街道」に続く4里(16キロ)の道は、まだ見ぬその先の旅への期待と不安に耐える気力を充実させる修行の道であったのかもしれない。 並木道はやがて再び車道に合流して残り4キロとなり、久しぶりの家並みの道である。遊歩道に馴れたのか、街中の歩道は走りにくい。吉富さんはいよいよ快調で、じりじり引き離されて遂にカーブの彼方に消えてしまった。このシリーズ、きっと走り足りなかったのだろう。
HOSOMITI その時、道沿いに [古民具展] の看板をみつけた。
“これは面白そう!” この街道筋に暮らしてきた庶民の生活用具はどんなものだったのだろう。江戸市中のそれに比べるときっと質素なものだっただろう・・・と大いに興味をひかれたが・・・、先行する吉富さんに伝える術もなく、後ろ髪をひかれる思いで 素通りしてしまった。このシリーズ唯一の未練であった。 この道中、江戸の名残を探す目の動きになっているので、少しでもその影が見えると周りの文明が視界から消えて古びた名残に足を止めてしまうのが癖になってしまった。
「生活の知恵」の移り変わりが「歴史」と言われる社会の変革を表すものであれば、人類が文明らしいものを起草して数万年の時間の中で極近の数千年という時間の中に人間が成し遂げた知恵の集積は極めて膨大且つ精緻なものであった。しかし、現世に伝え残した多くは、庶民の世界を遠く離れた人たちの遺作と云うべきものである。我々庶民にとってはもっと身近な生活感をにじませる身の回りの生活用具が歴史を素直に伝えてくれる証人である。芭蕉がこの道を歩いて接した民具はどのようなものであったのか、さらに明治以降西洋の知恵が入ってきた現代の民具、庶民の生活用具との落差はどのようなものだろうか。 興味は尽きない。

HOSOMITI家並みが濃くなっていよいよゴールが近い。 千住を出て140キロ、古きを尋ねてのとぼとぼ走りが間もなく終わる。 この旅、遥か先に続くとは言え、一つの区切りを迎えるのは達成感と同じだけ寂しい。
道の傍らに「日光国立公園」の標識が立っていている。 ゴールの目標はJR日光駅。すっかり街中のランになって先ほどまでの静寂な杉並木の道から突然異次元の世界に舞い降りたような思いがする。

やがて開けた一角に出た。 終着の日光駅である。 午後3時15分、ついにゴール!長かった~。
駅舎は全く想像に反して、意外と現代風なので驚いた。 「日光」にはもう少し和風な雰囲気がいいのではないかと思ってしまう。
先ずは記念写真。 お疲れ様。

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それにしても、何故かJR駅には人影が少なく、すぐ隣り合ってる東部日光線の駅はゴールデンウイークにふさわしくものすごい人混みである。 なぜだろう。

さあ、我々の目標は東照宮の境内のどこかにある芭蕉の句碑に辿り着くことである。  駅のゴールもそこそこに、最後の力を振り絞って神域までの1.5キロを急ぐ。歩道は 観光客で溢れてとても走れない。人ごみを縫って先を急ぐ。 道の両側は如何にも観光地らしい店が並んでいて客が群がっている。
HOSOMITI その中にいかにも老舗らしい店がひっそり客を待っているが無粋にも観光客は素通りしていた。勿体ない。 この町筋は日光詣での旅人のための宿場「鉢石宿(はついし)」である。芭蕉もこの宿場で日光の一夜を過ごしている。 宿場の通りを進むとやがて大谷川に行きつく。この川に架かる日光橋を渡ると東照宮の神域である。 川の上流には朱塗の橋が架かっている。遠く奈良時代に架けられた神橋である。天応2年(782年)勝道上人の開基といわれる二荒山神社に通じる神聖な橋である。夕日に朱色が美しい。 日光橋を渡るといよいよ神域の入口である。 そこには 「世界遺産 日光の社寺」 と彫られた大きな天然石の石碑が重々しく出迎えてくれた。
広大な境内に通じる多くの道に観光客が溢れている。それに混じって汗にまみれたよれよれのランナー二人、異様な光景だっただろう。
途中で貰った境内の地図を頼りに「東照宮宝物殿」を探す。 かなりの遠回りをして漸く見つけた東照宮の入口。徳川家の家紋をあしらった「東照宮」の堂々たる門柱が権威の壮大さを表して圧倒的な重みである。大鳥居をくぐる道の奥に陽明門、本宮他、多くの国宝の社寺が立ち並び広大な神域をなしている。
HOSOMITI時間がなくてこれらを訪ねることが出来なかったのは残念至極であったが徳川家の威光を感ずるには十分な雰囲気であった。 その近くに道をはさんで目指す「東照宮宝物殿」が緑に包まれてひっそりと建っていた。観光客は本宮に吸い込まれてしまうのか、宝物殿にはほとんど人影がなかった。この中にこそ見るべき宝物が待っているのに・・・。
よく手入れされた庭の一角に目指す句碑がひっそりと置かれていた。歴史を物語るように、刻まれた文字はかすれて判読が難しいほどであったが、そこには紛れもなく “あらとうと あおばわかばの ひのひかり” の文字が読み取れた。

遂に芭蕉の足跡を辿って日光まで来てしまった。 果てしなく続く旅の第一章が終わった。 思い立ったが吉日・・・と北海道横断走を終えたシニア・ランナーが、レースでなければ何とかなるだろう・・・と思いついたこのランは強力な助っ人にも恵まれて、北海道のようなシリアスな状況にも会わず、無事走り終えたのは幸運であった。 レースを卒業した走り好きが、まだ走りに夢を預けてささやかな汗を流すのは天命か、はたまた、ただの物好きか・・・。 たとえ、物好きであっても、文明の利器のもとでは決して見ることも、触ることのできない無限の至宝にめぐり会えた貴重な旅だった。

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横浜中央走友会 山本 卓


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