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【奥の細道】を走る  松尾芭蕉の足跡を辿って  255Km  2009年

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“ かさね とは 八重撫子の名なるべし ”  曾良 


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第2ステージ   その1 日光・今市~矢板

  期日:2009.9.8
  走区:日光・今市~矢板
  距離:34Km

第2ステージはこの企画の中で一番楽しみにしている区間で、特に那須野が原と黒羽は “奥の細道” の史跡が数多く残されているところで、正に史跡の宝庫とも云うべき処である。事前に集めた資料には出てこない予期せぬ出会いと発見に思わずガッツポーズが出てしまった。 かくして3日間の走り旅は数々の喜びをザック一杯に詰め込んで無事走り終えた。
地図の上では日光はまだ関東圏の思いが強く、第1ステージは意識的な負担は余り感じなかったが、日光から先はいよい「よみちのく・・・」と未知の国への緊張感を背負いながら出来る限りの資料を読みこなし、道筋の状況調査に地元市役所に問い合わせて取りあえず机上の準備を終えた。


かくして、9月8日早朝6時06分東戸塚発の電車で出発。途中浅草で東武日光線の快速電車に僅か1分の差で乗り遅れ1時間待ち。10時03分下今市駅に着いた。
雲一つ無い快晴、気温23度位、乾いた空気が爽やかなスタート地点である。
HOSOMITI 駅前で水3本、おにぎり2個、ウイダーゼリー1個 と一人旅の必需品を買いこんで準備完了。リュックは約6キロ、重い。地図を再確認して国道461号 日光北街道を大渡橋を目指してスタート。距離約8キロ。芭蕉は鉢石宿(日光)を出て会津西街道を経て同じく大渡橋を目指した。 快晴だが空気が乾燥しているせいか余り暑を感じない。日差しが強く目が疲れる。途中のスタンドでポケットタオルを水で濡らして帽子の後ろに垂らす。後頭部を冷やすので快適。 間もなく大谷川(だいやがわ)を渡る。 この川は日光の神域に入る時に渡った川で、下流7,8キロでの再会である。キラキラ光る川面に鮎を釣る人がのんびりと秋の日を浴びていた。第1ステージでは味わえなかった静かな里山の道はこのシリーズの背景にピッタリで幸先いい旅を喜ぶ。 目指す 矢板24キロ、玉生(たまにゅう)14キロの標識に気を引き締める
この道筋は鬼怒川、大谷川からの利水がよく整備されているのか、軒先の側溝を利用して おとり鮎 の商売をしている店があったのは面白かった。

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HOSOMITI 長閑な道沿いにお地蔵さまや庚申塚などがあちこちにひっそりと置かれているのは、いかにも歴史の古里を思わせるいい風景である。しばらく行くと道端の古木に大きな草鞋が掛けてあるのが見えた。
HOSOMITI説明板によると、これは「厄介払いの大草鞋」と云い、「芹沼(セリ沼。地名)にはこのような大草鞋を履く大男が居るから悪者は立ち寄るな」と何んともユーモラスな民話の原点みたいなお話。これを毎年春のお祭りに奉納すると云う、時代の移り変わりの 激しい今の時代に心がほっとするような長閑な道である。草鞋の横には浅間神社へ通じる階段が鬱蒼とした杉林の中に続いていた。 このシリーズを走り始めた時から、目が探しているものは「古き良き日本」であった。それは里山の風景であったり、ひっそりとした古刹であったり、ゆったりした流れに鮎を釣る人であったり・・・、この思いが第2ステージの初日から間断なく表れる光景となって、思わず走っているのを忘れてしまいそうな感動の連続であった。 と思う間に、道の脇に何ものでもないように「轟城址」の表示板が立っていた。
HOSOMITI この轟(地名)にはには鎌倉時代畠山一族の城があり、城跡が史跡として残されている。城跡一帯は如何にもそれらしい杉の森に包まれていた。 古くから街道筋に暮らしてきた人たちにによっては、お寺も城も「・・あって当たり前・・・」の存在で、日常の生活は近代的に移り変わってきたけれど、生きている至心はいまだ城跡の森の姿を宝としているのだろうか。都会人が心の故郷と描いている風景が目の前にどこまでも続いている道を見ると、やはり 「時間とは何ぞや・・・」と思い直してしまう。
道はやがて大渡に入った。ここで芭蕉が歩いてきた日光北街道が合流する。芭蕉は日光を出る時、宿のの主人に大渡橋への近道として脇道を教えられたが、現在の地図ではあまり近道にはなっていないようで心細い脇道の旅だっただろう。

ここで鬼怒川を渡る。芭蕉のころは水量により仮橋と船渡しだったようで、曾良の日記には「仮橋あり、大かたは船渡し・・」とあり、その時は運よく橋を渡ったらしい。
HOSOMITI 橋のたもとに「おとり鮎」を売る店があり、いつ来るかわからない客を待っておばあさんがのんびり店番をしていた。釣り人のそばに白鷺が置物のように川面を睨んでいた。どっちが早く獲物にありつくやら。 長閑な風景である。T字路にぶつかる461号線を右折して矢板を目指す。 矢板18k、玉生(たまにゅう)10k、初秋の日差しを受けて長閑な野の道が続く。いかにも謂れがありそうな大きな木が路傍に残されている。長い年月、世の移り変わりを見下ろしてきたのだろう。
HOSOMITIHOSOMITI 話が出来たら秘められた歴史の裏話を聞いてみたい、そんな想いがする風景である。大きな木の下には必ず小さな祠や地蔵が祀られている。 歴史の証人である。鬼怒川を渡ると日光市から塩谷町に替わる。古い街並みが見えてきた。この辺りは 船生(ふにゅう) 地区で、かっての宿場町である。大きな杉の木立に囲まれた古い民家はそのまま時代劇の背景になりそうな風景である。淡々と続く道の両側は一面に色ずいた稲穂の海が続く。時折走り去る車に否応なしに現実に引き戻されてしまうが、ある瞬間時代の錯覚を覚えそうな不思議な時間である。この旅の目指していた時間と空間は、まさににランニング・ハイとなって至福の時を与えてくれた。それにしても、この国の持つ「歴史の普遍性」に対する高い対応力は何が要素なのだろうか。芭蕉が草鞋で歩いたこの道を320年の時を経て同じ山を見ながら歩いているのは歴史と云う時間差をどう理解すべきなのか。田舎道は何時も同じ懸念を抱かせてくれる。
HOSOMITI坂の中腹に野の道には似合わない雰囲気の建物が見える。「船生歌舞伎座」
なぜこんな処に歌舞伎座が・・・? 近寄って見ると軒下の辺りに役者の名札が沢山架けられて、役者の幟がゆらゆら揺れていた。
それにしても、今の時代、ここに歌舞伎座が存在していることは驚きであった。今は稲穂に囲まれた静かな集落であるが、かっての宿場町の時代は多くの旅人たちの道中の大きな楽しみだったのだろう。古いお寺や、お地蔵さんを通して時間の移り変わりを感じていたが、この歌舞伎座の出現は時間調整機能を完全に麻痺させてしまった感じがした。 役者の移動用なのか、「劇団 暁」と書かれたマイクロバスが何台か駐車していた。

淡々とした道は船生から9キロを経て塩谷町 玉生(たまにゅう)に入った。 出発以来初めてのコンビニに出会い、待望の水の補充と昼食を買い木陰で休んでいた時通りかかった温厚そうなおじさん。
HOSOMITI ランパン姿を見て話しかけてくれた。 彼もランナーでフルマラソンを何度か走った・・・と云うようなことを話していた時、たまたま 「今、芭蕉の足跡を辿ってるんです…」 と話した途端、彼は満面の笑みを浮かべて静かに話し始めた。 彼は、道筋に建っている大きな 「尾形医院」 の院長さん。 彼の嬉しそうな話しぶりの背景は・・・。
芭蕉が玉生に着いたのは日暮れ時で、お供の曾良の日記によると 「・・玉生に泊まる。宿悪しきゆえ、無理に名主の家に入り宿を借る・・・」 と書かれている中で、その名主を尾形家が引き継いで、当時からの医者の家系が今に至っている。と云う。
HOSOMITIHOSOMITI 当時の名主の敷地の一角に「芭蕉 一宿の跡」の碑がひっそりと建っていた。 また他の一角に残されている 「奥の細道 芭蕉翁の遺跡」の碑には曾良の旅日記の一節と尾形家との係わりについての紹介文が刻まれている。 あの夜、芭蕉に一夜の宿を貸した名主の末裔が、今、目の前に温厚な姿で立っているのは何んとも不思議で感動的な出会いであった。 実在の人を介して芭蕉が一番身近に感じられた瞬間であった。
もし自分がランパン姿でなかったら多分彼も話しかけては呉れなかったかも知れない。 偶々、彼もマラソンのランナーであったことが、この不思議な出会いを演出してくれたような気がする。 マラソンと芭蕉、何のつながりもなさそうなこの組み合わせが自分を最高に幸せにしてくれた出会いの妙であった。

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地図にも出てこない小さな集落のその又奥に、追い求めていた芭蕉の遺跡が数多く残されており、そこに生活している人たちが芭蕉が歩いた道「芭蕉の道」を今も生活の道として生きているのは感動であった。
「人生 いたる処 青山あり」

思わぬ寄り道が長くなって太陽が午後に回っていた。今日の宿まで残り15キロ。再び人影のない道に戻る。玉生の史跡は想定外だったので、思わぬ収穫に疲れも忘れてガッツポーズが出た。まったくの無人の一本道はこの幸運に浸りきる格好の舞台であった。陽が西に傾きかけて大田原までの道を急ぐ。東京から141キロの標識。 まだ僅か140キロ、でも東京と云う字がなぜか郷愁を覚える。一人旅の宿命か。

    “ この道を 行く人なしに 秋の暮     芭蕉 ”  

道は次第に人里を離れて町境の峠に入る。峠まで3キロ、この峠を越えると矢板である。 峠道は次第に森が深くなって、曲がりくねったその先が見えない。
HOSOMITI と その時、細い枝道の入り口に 「熊 出没・・・」の看板が立っていた。 本州の、しかもかなりの交通量がある幹線の脇の看板。立派な道路とは言え、所詮彼らの領域である。 写真入りとは言え、なぜかあまり迫力がない。
一昨年夏、北海道横断の際、石北峠越えの最後の店で歓迎してくれた?巨大な羆の剥製に比べると本州の熊は縫いぐるみ位に見えてしまう。
HOSOMITI 北海道では、この店から石北峠頂上までの登り26キロ、全くの無人の原生林の中の一人旅は肺活量が一気に何倍にもなるほどクマ除けのホイッスルを吹き続けてのランだった。 それにしても、所詮小さなこの国の中で、今の時代に野生と紙一重の生活圏を構成していられるのは誇るべき文明の証しではないだろうか。芭蕉は無事に峠越えが出来たのだろうか。
HOSOMITI 峠を越えて平地に下る途中で東北自動車道を陸橋で超えた。野生の世界と文明の先端とが共生している不思議な光景である。峠を越えた芭蕉も眼下に広がる那須野が原を見たときは歓声を上げたかも知れない。 峠越えはどんなに低い峠でも、その向こうのまだ見ぬ世界にあれこれの期待を抱いて、流す汗は楽しみを溶かしこんだ苦しいランである。 登りの苦しさから解放された時の爽快感を独り占めする贅沢。 陸橋の上からは色付き始めた稲穂の向こうに矢板の町が見える。これまで通り過ぎてきた宿場町のひっそりと静まり返った家並みを見慣れてしまった目にはコンクリートの建物は異質のものに見えて意識の切り替えに戸惑う。 あの町の中に入っていくのは嫌だな~と思う。 「東京144キロ」の道標、江戸まで36里、昔の旅人はこの距離をどう思っただろうか。 あと36里、まだ36里。 旅は耐えることである。

矢板、久し振りに大きな町である。これまで通り過ぎてきた道筋と、所々の集落は 「奥の細道」 を思い起こさせるような里山の風景だったので、信号待ちの人や車の世界に戸惑いを感じる。高校生の帰宅時間なのか、久し振りに歩道を歩いている人を見た思いがする。
HOSOMITI あっという間に矢板の町を通り過ぎた。町はずれに謂れのありそうな古い建物が残っていて、今にもおっとり刀で侍たちが飛び出して来そうな門構えの家が健在で往時を偲ぶ雰囲気充分である。
HOSOMITI JR東北本線を渡り国道461号はここで国道4号線と合流する。ここから4,5キロは4号線を走り今日のゴール野崎駅を目指す。さあ、あと5キロ。陽はすっかり西に傾き影が長くなった。僅か34,5キロの道のりを夕日に追われてしまった。 それだけ道草のタネが多かったと云う事だろうか。今日の一日は思い描いていた里山の風景の真っただ中で過ごした気がする。 途中巡り合った尾形院長のことも、偶然とは言え辿り歩いている者にとっては芭蕉が我が意を察し取り計らってくれたのではないかと思う幸運であった。
あれこれ思い返しながらの国道4号線のランは、つい先ほどまで浸っていた山里の情景を遠くに吹き飛ばすような車のスピードにかき消されて、否応なしに現実に引き戻されてしまった。

HOSOMITI道は間もなく箒川を渡る。川底の小石が数えられるほど透き通った水がゆったり流れて、その下流に鮎の簗場が設けられていた。ここで4号線は再び別れて北に向かい、461号線は南下して大田原に向かう。 間もなく野崎の駅が見えて今日のゴールが近い。



小さな駅で周辺はとてもホテルがあるような気配がない。今日最後の道を尋ねてようやく杉林の裏のホテルにゴール!  17時10分。 今日は芭蕉が一番身近に感じられた一日だった。今日も長い一日だった。 広い湯船にドップリ浸かり頑張った我が足を揉む。至福の時である。待望の夕食は名産 鮎のあれこれ。あっという間にビールが空になった。


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横浜中央走友会 山本 卓

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