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【奥の細道】を走る  松尾芭蕉の足跡を辿って  255Km  2009年

HOSOMITI

“ かさね とは 八重撫子の名なるべし ”  曾良 


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第2ステージ   その2 矢板~黒羽~黒磯
  期日:2009.9.9
  走区:矢板~黒羽~黒磯
  距離:32Km

温泉とビールと心地いい疲れで熟睡。 快晴の朝を迎えた。体調checkのため周辺を探索。 どこにも異常がなく全く疲労が残っていない。やっぱりアミノ・バイタル3600が効いたのかな~。 
HOSOMITI 昨日の里山の風景が一変して今日は平坦な野の道になりそう。 飲み物3本、頼んでおいたおにぎりを背負って8時スタート。快晴、気持ちがいい。
今日のルートはこのシリーズの最高の楽しみが待っている。
道は昨日の日光北街道に並行している芭蕉が歩いた 旧日光北街道 を南下し、大田原を経て黒羽(くろばね)までの18キロ。那須野が原の真っただ中のランである。
周りはすっかり色ずいた稲穂の波、振り返れば那須連山が朝日を受けて緩やかに連なっている。
“ 奥の細道 ” の中で、この辺りの情景を書き残している一節が一番好きな部分である。 平易に書くと、
“…那須の黒羽という処に知人(門人桃雪、翠桃)がいる。はるかな村を目当てに歩いたが雨が降り、日が暮れてしまった。 一夜の宿を借りて翌日も野の道をゆくと野放しの馬がいた。草を刈る農夫に嘆き言を云いよると、…どうしたら よかろうな~。この野は道が入り混じって慣れぬ旅人は道を間違えるだろう・・・。この馬が立ち止るところで馬を返して下され・・・と云って馬を貸してくれた。小さな子供が2人馬のあとをついてきた。一人は小姫で名を 「かさね」 と云う。聞きなれぬ名前が優しかった。 やがて人里に着いたので、鞍つぼに駄賃を結へて馬を返した・・・“

    “ かさね とは八重撫子の 名なるべし   曾良”

HOSOMITI ぼくとくな農夫と初老の旅人のやり取りが如何にも微笑ましく心が癒される情景である。芭蕉は 「かさね」 と云う少女の名前が気に入り、
…我 もし子あらば この名を得させん・・・
と思うほどで、のちに名付け親を頼まれた時、迷わず 「かさね」 と名付けたと記録に残されている。
芭蕉が歩いた頃はこの稲田は葦の原っぱだっただろう。
今、自分が見ている風景は葦が稲田に替わっただけで芭蕉が見た風景と同じかも知れない。 これも感動である。
相変わらず、人影も見えない野の道を往時の情景にドップリ浸かって走っていると行き交う車は全く注意の外に感じられる。
HOSOMITI道は大田原の外郭を周り再び461号日光北街道に合流した。
標識に初めて 黒羽 の文字が出てきた。
大田原の町はずれで嬉しい敷石を見つけた。
“与一(那須)の里マラソン。一周9.47キロ。スタート地点”
HOSOMITI何処にでも走り好きの仲間が居るもんだな~と嬉しくなった。大田原は高校や実業団の強いチームが地元のマラソン熱を煽っているのだろう。毎年秋に行われる大田原マラソンの 10kで4位になったのも随分昔のことになった。あの時の豚汁が美味かったのを思い出した。
黒羽が大田原市に併合されたのを機会に 歴史の町 を売り込もうと、大々的に道の拡張をしてしまったため、芭蕉が歩いた頃の面影をすっかり消してしまった、発想の貧しさが情けない。緩やかな坂を登り切った先に突然広大な農地は広がっていて、今、飼料用コーンの刈り入れ真っ最中であった。大きなトラクターが搬送用のトラックを横に従えて裁断したコーンを送風機で積み込んでいた。まるで、アメリカの農場そのものだった。遥か遠くに大きな畜舎が何棟も見え、道端に「株式会社 那須農場」の標識。 牧場も株式会社の時代なんだな~。
HOSOMITI広大な畑の向こうに突然白亜のビルが目に飛び込んできた。「国際医療福祉大学」である。学生数4000人。
広大な牧場のに並んで堂々たる大学の建物、何んとも不思議な取り合わせに驚いた。芭蕉の世界は何処に行ってしまったんだろう。 愕然。 それにしても、学生数4000人なら、周辺地域は」もっと学生街らしい雰囲気があると思うが、ここにはそれらしい店や学生寮などは全く見えない。畑の中の一軒家みたいなところで学生たちはどんな生活をしているんだろう。 余計な心配をしてしまう。
最近は思わぬ処に忽然と「大学」が現れる時代である。驚くべきことではないが、シニア・ランナーには思考の整理に暫く走らなければならないのが悲しい。
緩やかに起伏する那須野が原の景観は芭蕉もしばしの休息を取ったことだろう。

道中雑詠 “ 遥けくも 来し方淡くたそがれて ススキが原に秋の声きく”  taku

HOSOMITI標識が「黒羽 7キロ」 を教えてくれる。待望の町である。 大学の前から続いていた下り坂の麓に 道の駅「与一の郷」が待っていた。「那須の与一」を知っている人はもう少なくなったであろうか。 源氏と平家が争った「屋島の合戦」で平家方の船に掲げられた扇を源義経が与一に射るよう命じ、お経を唱えて射た矢が見事扇の真ん中を射ぬいて源氏の喝さいを浴びた、と云う歴史にまつわる話。
HOSOMITI与一はこの那珂川の近くで生まれた。上記の謂れを地元の誇りとして町中が与一で溢れている。 道の駅は扇に因んで扇型をした屋根を持つ3棟の建物。その中の「与一伝承館」を覗く。観光客はみなお土産館に吸い込まれて伝承館はひっそり。 暇そうな案内のおばさま二人に捉まってあれこれの雑談。そのうちに、大きなお盆に栗の入ったお赤飯とお茶やら果物やら・・。
HOSOMITI丁度お昼でお腹がすいた頃だったので美味しかった。 子供の頃は誰でも知らずに教わっていた歴史上の話も多くは物語として聞いていたが、今その物語の舞台に自分が立っているのは何んとも不思議な思いがする。このシリーズは古きを訪ねる旅である。 これまでの道みちに隠されている古い語り伝えが住む人の数だけあるだろう。この国が開国して、明治維新を経て羽織袴から洋服に替わってまだ僅か150年位しか経っていない。現代の感覚から見れば、羽織袴に刀を指している姿ははるか歴史の彼方のように思われるが、実際は僅か150年前の話である。我々が歴史の話として聞くようなことでも、祖父や曾祖父から直接聞いたことのあるお年寄りがまだ近くに大勢存命している。またもや歴史と時間の関わりに悩む瞬間である。道の駅に隣接して那須神社がある。文治3年(1187)那須与一が屋島の合戦の戦功を感謝して社殿を寄進したといわれている。
お腹も満たされて、親切なおばさま達に見送られて、いよいよ待望の黒羽を目指す。

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HOSOMITI真っ赤な花の植え込みの遥か彼方に黒羽の街並みが見える。これまでの長旅でも、目的地にゴールする時より、遥か先に目的地が見えた時の方がはるかに嬉しい。
目指す街並みが中々近ずいてこない。もどかしさの中に疲れた足が頑張ってくれて街並みの最初の家に辿りついた時は、苦しさから解放されて安堵の思いと重なって思わずガッツポーズが出てしまう。 こんな思いを何度味わっただろうか。ロングランの楽しい思い出はみんなこの一瞬の積み重ねだった。
町の入り口に 「ようこそ 鮎おどる 芭蕉の里 黒羽へ」 と書かれた時代の趣をにじませた歓迎の標識が迎えてくれた。
HOSOMITI HOSOMITI現在のJR東北本線は、当初の計画では現在の大田原市の東側、黒羽に近い処を通す計画だったが、住民の反対にあい現在の位置に決まったらしい。そのため、黒羽地区が開発から取り残されてしまったことが現在の 「芭蕉の里」を保存できた皮肉な結果となった。当時の住民の反対の理由は何だったのだろう。
芭蕉の史跡を保存するため・・・であったら素晴らしいのだが・・・。
道はやがて国道294号線 旧陸羽街道と交差して黒羽市街に入る。旧道の名残を残す狭い道筋に観光地らしく 「鮎と芭蕉」があふれている。待望の黒羽である。 時刻は11時、 さあ、何処から見ようか? 無駄なく歩くための情報を得ようと市役所支所の観光課を訪ねて説明と資料を沢山貰った。“ 大勢の芭蕉フアンが来るけど、走って来たのは貴方が初めてです。その意気やよし!” と可愛いお嬢さんが淹れてくれた美味しいお茶を飲みながら見学ルートを詳細に説明して貰った。 今日の残り走行距離14キロ、黒羽出発を午後3時として、それまでの3時間でどれだけ見学できるか? 芭蕉はこの地の「黒羽藩」の家老で、ともに俳諧を嗜む浄法寺桃雪、弟の翠桃の大歓迎を受けてここに14日間逗留し、近在の古刹を訪ね、句会を催して旅の疲れう癒した。320年前、芭蕉が歩いた時、既に名所旧跡と云われていた“ 古きもの” がこの片田舎に点在し、現代の我々がその芭蕉の足跡を“古きもの” として辿っていることを思うと古きものを慕う日本人の個性が連綿と繋がっていることを実感する。

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芭蕉は3月27日江戸を出て黒羽に着いたのは4月3日、連日歩いて8日目 速い!
“芭蕉の里”は街中の那珂川大橋を渡った所から始まる。今が鮎釣りの最盛期で長閑な川面に釣り人が点々と竿を振っていた。 観光課で貰った案内地図が大きな表示板となって道端に建てられている。 廻るルートを確認して歩き始める。
HOSOMITI最初に目にしたのは黒羽小学校、その正門が黒羽藩の重臣大沼某の侍門を移設したもので、如何にも歴史の町を思わせる重々しい構えの門である。地元の子供達は、この時既に郷土史を学んでいるのである。見学ルートの道は 旧大宿街道で、道の左右にあれこれの史跡が残っているので、気をつけてルートを決めなければ見落としてしまいそう。 しかし、全部を回っていたら日が暮れてしまう。止む無く幾つかを選んで廻ることにした。
HOSOMITI少し先、杉の木立の中に大雄寺の参道が続いている。大雄寺は黒羽藩主大関家の菩提寺で室町時代の様式を残す総茅葺の珍しいお寺である。
念願が叶った芭蕉が杉の木立の階段を曾良をお供にとぼとぼ登る後ろ姿が目の前に彷彿と思い描かれる。 この道筋ただ一軒のお蕎麦屋さんで昼食にする。店は創業が何年前か判らないと云う。この店に珍しい写真が飾られていた。明治維新の頃の古いもので、人物は黒羽藩主大関増裕仁(写真右端)、勝海舟(黒い洋服)が写っている。
HOSOMITI勝海舟が洋服を着ているのが珍しい。二人はどんな関係があったんだろうか。共通点は二人とも幕末の海軍奉行の先輩後輩であったことぐらい。
左から二人目の外国人はブアン バルケンハーブ、当時のアメリカ公使かな?。幕末の激動の中、この東北の片田舎にも洋服、外人,椅子、写真 と文明開化の波が押し寄せていたことが窺える貴重な資料である。 海舟が初めてズボンを穿いた時の感想を聞いてみたかった。
久し振りにゆっくり食事をして、さあ 出かけよう。 蕎麦屋の庭先に生い茂る草の中にひっそりと句碑が置かれていた。

   “ いく春や 鳥啼き魚の 目に涙      芭蕉 ”

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大雄寺の少し先が芭蕉公園で、奥に通じる「芭蕉の道」の先に旧浄法寺邸が見晴らしのいい高台に再建されている。この邸は家老の浄法寺桃雪の居所で、芭蕉はここに14日も逗留して旅の疲れを癒したところである。その情景は道中記の中で、
“…思いがけぬ主の悦び、日夜語り続けて、弟の桃翠などと云うが朝夕務めとぶらい、自らの家にも伴いて親族の方にも招かれ・・・、日を降るままに一日を郊外に逍遥し・・・、日が暮れれば桃雪宅に帰る・・・。”
主も客も本当に寛いだひと時を過ごしたこの部分の情景が目に見えるようで好きな一節である。
桃雪邸の広い庭のひと隅に「細道」の一節とともに残されている一句。

   “ 夏山に 足駄を拝む 首途かな   芭蕉 ”

黒羽城址に続く道にもひっそりと句碑が残されていた。

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   “ 田や麦や 中にも夏の ホトトギス    芭蕉”

今回のランでも、人影のない里山の道に芭蕉が詠んだ情景が今もそのままの姿で 残されているのをあちこちに見ることが出来た。 またもや、時間とは何ぞや?の難問を背負うことになった。
公園の奥に通ずる道は、やがて 「芭蕉の館」 に着く。広い敷地には当時の面影が偲ばれるような風格のある記念館が建っている。
HOSOMITIHOSOMITIそこには、芭蕉ゆかりの品々や黒羽藩主大関家にまつわる文書などが展示されている。
その庭先には馬に乗った芭蕉が曾良をお供に野の道を往くブロンズ像が建てられている。 この馬はきっと那須野が原で農夫から借りた馬なのだろう。如何にも風流な姿である。 この像に会うのが今回のランの大きな目的でもあったので、ようやく巡り会えたのは大きな感動であった。
ひと気のない芝生に腰をおろして、辿りつくまでの長い走り旅を思い起こし、大任を果たしたような安堵感を味わった。
広場の片隅に 道中記の一節と句を彫った句碑が立っている。

   “ かさねとは 八重撫子の 名なるべし    曾良”

HOSOMITI芭蕉公園からは黒羽城址公園へは閑静な遊歩道が続いている。黒羽城は戦国の世に対処すべく天正四年(1576)大高高増によって築城され、明治四年(1871)の廃藩まで300年間、その威勢を誇った名城である。 城跡に残る土塁や空濠りは戦国末期の山城の特徴をよく伝えていると云われている。付近は紫陽花の名所とのことながら、時期が過ぎていたのは残念であった。 この公園で珍しい物を見た。 城の居住部の部屋割り である。これまでは、我々は城の外観を見る機会があっても、生活の場である居所の間取りを見ることはなかったが、ここでは、その間取りを正確に図示した表示板が出来ていた。
膨大な部屋数である。どのような機能を持っていたのか、採光はどうだったのだろうか?現実の生活の場をあれこれ想像してみる。

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黒羽は芭蕉が長逗留したので、その足跡が広い範囲に散らばっており、僅か2,3時間では多くの足跡を見残してしまった。 再び訪れることがないだろう 憧れの地に立てて、この一日は長い間の念願を満たしてくれた貴重な時間であった。、先を急ぐ身としては後ろ髪を引かれる思いで「芭蕉の里」を後にした。 HOSOMITI  ほとんど車も通らない静かな山の道端に 「関東ふれあいの道」 の道標がぽつんと建っていて、細い道が鬱蒼と繁る杉林の中に吸い込まれるように消えていた。  東京近郊で出会う「関東ふれあいの道」 につながっているのだろうか。


高台からは那珂川がゆったり流れているのが見える。 この流れの中を泳ぐ鮎の姿は、そのまま日本画の世界だろう。 川のほとりに簗が仕掛けられており、観光客向けのよしず張りの茶店が大勢の客で賑わっていた。

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この道を通る者には関所みたいな処で、熱々の塩焼きは美味かった。 隣のおじさん達が美味そうにビールを飲んでいるのを横目で見ながらの鮎は忍の一字の我慢会であった。
念願だった「芭蕉の里」をひと巡りして、道は再び国道294号、旧陸羽街道に出る。 国道脇に茅葺きの古い民家を活用した 「暮らし館」がひっそりと建っていた。

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ここは 多分日光で見た「古民具館」と同じ、つい最近まで普通に使われていた生活用品が陳列されているのだろう。 信号の向こうに少し戻らなければならないのが勿体なくて、そのまま先を急いでしまったが、戻らなかった自分の思いの浅さが情けなかった。
さあ、今日の宿 黒磯 まであと14キロ、町の入り口?に建っていた歓迎塔と同じものが出口にも建っていて、時計が午後2時半を指している。予定していた時間で黒羽とお別れである。 294号線を約5キロ北上して「寒井」の交差点を左折して34号線を黒磯を目指す。

道の両側はまた長閑な田園調である。 歩道がしっかりしているので気持ちも緊張感から解放されてのんびりランである。午後の陽を一杯に受けての一人旅、至福の時である。
HOSOMITI 途中で自転車の小母さんに追いつかれたが、そのあと引き離しもせず目の前をゆっくり走っているので、少し急いで声をかけたら、これが話し好きの小母さんで久し振りにあれこれ話をしながらの楽しいランであった。 小母さんに伴走してもらっているような光景がちょっと気になった。少し行くと道端で小母さんの友達?が畑仕事をしていた。小母さん同士で挨拶をしているのでこちらも小休止。水分補給をしていたら、畑の小母さんが大きなトマトを御馳走してくれた。
HOSOMITI 北海道横断と全く同じパターンで、その話をして三人で大笑いしてしまった。自転車の小母さんは黒羽の町まで買い物に行ってきたと云う。 寒井で別れた時もまだ先へ帰って行ったので、何んと5キロも離れた町まで自転車で買い物に行ったことになる。  我が家から戸塚まで行くようなものである。 凄いな~!。 都会の便利さを知らずに、何事でもないように荷籠に僅かな品物を載せて日差しの強い中を帰っていく姿は、 ついこの前までの日本人の日常生活の光景であった。

寒井で国道294から左折して国道34号線を黒磯に向かう。この企画で矢板の次の宿を何処にしようか・・・というのが大きな問題であった。街道筋で30~40キロの範囲で宿のありそうな町が見当たらず、止む無く枝道ながら黒磯に宿を決めた。国道294号から約10キロの枝道であった。幹線から離れて34号線は静かな穀倉地帯を走る。この道は黒磯を経て那須温泉郷に続いている。 このまま温泉に直行・・・、幸せだろうな~。 この街道は旧奥州街道を直角に交差して那須に向かう重要な道である。 細い道ながら、旧道の面影を随所に残して静かな郷の道である。
HOSOMITI寒井から4キロ、奥州街道戸の交差点「鍋掛」を直進してあと6キロ。
明日はこの交差点まで戻り奥州街道を北に向かう。陽はすっかり西に傾いて影が長くなった。よく整備された歩道を西日を正面に受けて最後の直線道路。
下校途中の中学生が皆礼を正して挨拶をしてくれたのには感動した。学校の指針が生徒に深く浸透しているのが嬉しかった。
“横浜から来たんですか?”“ yes”“ すごい!” 信号待ちの一瞬の触れ合い。
道の傍らに古い石碑が建っている。 「挙村一致」、その昔、村を挙げて対応しなければならなかった難題を見事克服した村人達の喜びを記念したものであろうか。 周り一面黄金色に色ずいた平和な郷に、その昔何が起こったのだろう。
家並みが濃くなって黒磯駅行きのバス停がゴールの近いことを教えてくれる。

HOSOMITI 17:00pm 「ホテル皆幸の湯」にゴール! 今日の一日は四角形の三辺を走った。 その一辺毎に全く違った世界が現れて、終わってみれば、とても一日の出来事とは思えない程の際立った印象が残った。 農夫が貸してくれた馬に揺られて茫漠たる葦原の道を行く芭蕉、浄法寺邸に逗留して俳句を嗜む多くの仲間たちと過ごした芭蕉のゆったりした日々、どれもが貴重な情景となって目の奥に浮かんでくる。 長かった一日を思い起こしながら熱い湯船に浸る安堵の一瞬。 至福の時である。 夕食はバイキング、那須牛が美味かった。もちろん ビールも!!

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横浜中央走友会 山本 卓


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