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「中山道・宿場町」を訪ねて  高崎 ~ 海野宿  89Km  2010~2011年

NAKASENDO

【妙義山遠望】


中山道 なぜか郷愁をおぼえる響きがする。その昔、時代劇テレビの主役だった木枯らし紋次郎がニヒルな顔を深い編み笠に隠して足早に通り過ぎて行ったあの道筋。国定忠治も夕暮の迫る浅間山を背に追分の宿場へ急いだであろう道筋、中山道には東海道とは違う市井の人たちに親しく受け入れられる穏やかな古さをおぼえる。その昔、江戸と京都を結ぶ道は海沿いを行く東海道と山を通る中山道が国道であった。しかし、東海道は平坦であったが川が多く、ひとたび雨が降ると川留めの憂き目に会い水の引くのを何日も待たされる不便さがあった。また、川渡り(徒渡り、カチワタリ)は人足に背負われたり、戸板に乗せられたり、で女性たちには辛い道中になった。これに対し、中山道は山が多いが川が少なく、背負われて渡る川は1か所しかなかった(東海道は13か所)。このことが理由で先を急ぐ旅人や女性たちには中山道ルートが人気があった。ご存じ皇女和宮が文久元年(1862)公武合体を図る幕府の政策により徳川家茂に嫁ぐため京都から江戸に向かったのもこの道であった。 前置きだけで終わってしまいそうなので先を急ごう。

 このように、現代に生きる我々の直ぐそばに歴史のロマンに溢れる旧道があることは、走り屋として見逃すことのできない宝の道である。
かくして、旧中山道に残る宿場町を辿りながら念願の旧碓氷峠を越えて信濃追分に至る約60キロランに老いの身を預けることにした。当初は、一人で・・・と思っていたが、いろいろ資料を調べるうちに峠越えの旧道は明治17年(1884)、現在の国道18号が馬車道として開鑿されたときに閉鎖されて、現在までほとんど手が加えられておらず、鬱蒼とした茂みの道となり、時折ハイカーが通るぐらいの山道となった。「クマに注意してください・・」と言う市観光課の話を聞いて、昼なお暗い登り7キロの一人旅に耐える度量もなく、恥ずかしながら相棒を道ずれにしようと甘言を囮に、乗りそうな仲間に声をかけたら何んと3人が手を挙げてくれて、ここに、めでたく「旧碓氷峠越え無謀隊」の結成を見た。因みに、この山道は、幕末の安政2年(1855)安中藩15代藩主の板倉勝明が藩士の士気を高めるために安中から峠の頂上の熊野神社までの7里(28キロ)を走らせた。という日本のマラソン発祥のルーツである。
現在も毎年5月第2日曜日に「安政遠足(とおあし)マラソン」として侍に仮装したランナーが厳しい山道に挑んでいる。(走友・平石さんのお気に入り)

第1ステージ
 
期日:2010.9.4~5
走区:高崎~横川
距離:35Km
走友:黒木純子(黒ちゃん)  東京女子マラソンの常連、マスターズ駅伝神奈川代表
   松本星美(ホッシー)  高校・陸上部、大学・スキー部、フルマラソン修行中
   藤岡哲雄(鉄  人)  サロマン・ブルー<サロマ湖100Kマラソン10回完走>

<ルート図はこちら>


【2010.9.4(土)】
横浜発6:09 湘南新宿ライン快速高碕行き、快晴。

連日の猛暑に辟易しながらも、この日に備えていた4人組が予定通り8:53高碕駅に到着。 9時、気温すでに30度を超えて、ぎらつく太陽が恨めしい。
NAKASENDO 今日の予定は高碕~横川32キロ。この気温の中での30キロランは無謀の謗りを免れないことは必至である。ついては、急きょ車内会議?を開き、今日の無謀さを各自再認識し、道中、不都合が生じたときは潔く走行を中止して最寄りの駅(信越本線)から終着駅 横川 まで移動する。今回のランの最大の目的は翌日の旧碓氷峠を越えること、の再確認をした。
9:30am 高碕駅をバックにスタートの記念写真を撮り、近くの高崎城址で準備体操と最後の点検を済ませて勇躍国道17号線に出る。女性群も日ごろのレースと違った緊張感を滲ませながらのスタートであった。この国道17号は‘07.5.4、越後路ラン(新潟~東京)第2ステージで、走友吉富さんと道に迷いながら真っ暗の中やっと高崎駅に辿りついた最後の部分である。こんなに整備された道とは思いもつかなかった。なお、越後路ランのこの先高崎~北鴻巣50キロは‘08.5.4に今日の仲間藤岡さんと走った懐かしい道であの日も暑かった。
NAKASENDO 上越の山々を見ながら1キロ程北上し、待望の国道18号線中山道に分岐する。標識の矢印がランナーの覚悟の程を確認するかのように無言の圧力となって重くのしかかってくる。 歩道は完備しているが、日陰の全くない道が怖い。 この先暫くは中山道は18号線として西を目指す。やがて 「藤塚の一里塚」が道の反対側にきれいな塚を見せている。
国道18号は旧道を呑み込んで近代的に建設されているので、かっての旧道の名残がほとんど失われている中でこの藤塚の一里塚は貴重な旧道の証であった。日本橋から28里(112キロ)である。
NAKASENDO やがて、「少林山達磨寺」 の指標が出ている。道の反対側の奥らしい。 ところで、高碕と言えば「だるま」の町。17世紀末 一了居士と言う行者が達磨大師の座禅像を彫刻して奉納したのが始まりと言われる。
先ほど、18号に分岐したすぐ後の道の左側に大きな「だるま」が、まるで観光地の旅館の女将さんたちが玄関前に並んでお客を迎えているあの姿に似ていて微笑ましい。 日差しがますます強くなってきた。できるだけ頻繁に水分補給をするが、次、コンビニや自販機がどこにあるか判らないので、各自がペットボトルを最小限2本を常時持つことにした。これだけで1キロ、重い。
NAKASENDO 大きな交差点の右手に大きな鳥居が現れた。八幡八幡宮の大門が真っ青な空に向かって威厳を誇っていた。
この付近から「板鼻宿」である。この宿場は高碕からの最初の宿場である。
この街道筋は慶長9年(1604)に整備され、この宿場は中仙道の中でもまれにみる繁栄を見た。
NAKASENDO それは、碓氷川の渡し場を控えて伝馬宿場(疲れた馬を取り換える)の機能を持っていたので、参勤交代の大名たち一行や一般の旅人達の滞留のための旅籠(宿)が大小53軒もあったと言う。このほか休茶屋、商家など家の数が350軒もあったと記録されている。
中山道が整備されるまでの板鼻宿は、碓氷川の氾濫を避けるため、現在地の少し北側の台地の上にあり「東山道」として奥州・平泉へとつながっていた。「奥の細道」に出てくる「白河の関」は当時の奥州街道、現在の国道294号から4,5キロ離れたこの東山道に置かれていた。板鼻宿の地が東山道を介して去年走った「白川の関」に繋がっているのは嬉しい発見であった。
今回の旧中山道は500mごとに次の宿場までの距離を示す道標が立てられていたが、残念ながら「キロ」表示なのが惜しい。「里,町」なら街道の雰囲気が出せただろに。とは言え、走り屋にとっては格好の距離表示となるので好都合でもあった。
それにしても暑い。日陰の全くない歩道をふらふら走っている4人組を車の人たちはどう感じているだろうか。何か不思議なものに会ったような怪訝そうな顔が見える。ランナー本人はいくら暑くても、自分の一番好きなことを目いっぱいやっている地球上で一番の幸せ者だと思っているのに・・・。
NAKASENDO やがて、中山道は国道18号から分かれて国道48号線となって西へ向かう。
宿場通りの中ほど、信越本線の踏切に「板鼻宿」の標識、判りやすい。
間もなく、右手に瀟洒な建物が見える。「安中市板鼻公民館」が広い敷地にゆったりと納まっている。門の脇に「板鼻宿本陣跡」の真新しい標識が立っている。当時の本陣の広さ、大名の権力の大きさが絶大であったことが判る。(本陣とは、大名が泊まる宿。脇本陣は上位の家来たちの宿。下位の家来たちは旅籠に泊まった。)この本陣は 木崎家が営んでいた。
この公民館の敷地内に本陣書院が残されている。この書院は皇女和宮が江戸へ嫁ぐ途中、文久元年11月10日に宿泊されたと記録されている。因みに、東海道・保土ヶ谷宿で軽部家が営んでいた本陣跡が国道1号と鎌倉街道の分岐点側に文化財として現存している。

NAKASENDO この付近で宿場町は終わった。道がやや登りに向かい、碓氷川が少し低く見える。その先で「鷹の巣橋」を渡る。川幅は広いが川底がきれいに見える浅い川である。橋を渡り終えてからの道筋が地図と照合してもなかなか判らず、やむなく土地の人に尋ねて、前方の歩道橋を渡るのが近道とおそわる。道筋はもう安中宿である。堤防をバックに「中山道 安中宿1.2k, 板鼻宿1.2k」の道標。再び「久芳橋」で碓氷川を渡り安中市内に入る。市の北はずれに近く「安中駅」が時代を彷彿させるひなびた風情でたたずんでいた。
久芳橋を渡り終えて旧道沿いの市中に入る。道の両側に史跡、旧跡がたくさん保存されてる。安中城は永禄2年(1559)安中忠政によって築城され、地名を「安中」と改めた。しかし、世はまさに戦国時代。小藩の安中城は1575年「長篠の戦い」で武田信玄の猛攻を受けて壊滅し城主不在の廃城となった。1583年 武田信玄も滅び、安中藩も歴史の端にその名を僅かに留めるだけとなった。
NAKASENDO 安中宿は 隣の板鼻宿1400人、松井田宿1700人に比べて、僅か380人の人口しかなく、当時中山道に課せられていた定数人馬 50人、50匹の供出義務が果たせず、特例として半数の25人、25匹に軽減してもらった、と言う貧しい宿場町であった。しかし、安中宿は最奥の坂本宿と高崎宿の中庸に所在することで後年行政上の要地として地域の中心へと変貌していった。また、安中宿は天明3年(1783)浅間山の大爆発で壊滅的な被害をうけた。
「熊野神社参道」の標識の陰にひっそりと「非戦の先駆者 柏木義円の墓」の標識が立っていた。いつ頃の人なのだろうか。 明治以降、この国が海外に兵を送り出したときに身内の誰かを失い悲痛の思いを非戦の叫びとして世に訴えたのだろうか。当時の時勢の中では際立った叫びだっただろう。
NAKASENDO 「安中藩郡奉行役宅」と示された家が今風に建て替えられていたが、その当時の豪壮さをしのばせる立派な建物であった。この家は安中藩郡奉行 猪狩磯右衛門の居宅であった。その少し先に武家屋敷を思わせる如何にも雰囲気のある建物が壮大な敷地の中に建っていた。 安中で見落としてはならない人物として、同志社大学の創立者 新島 襄がいる。
NAKASENDO 新島 襄は天保14年(1843)神田一ツ橋の安中藩屋敷で生まれ、1864年脱藩して函館からアメリカに密航、ボストンにて大学、神学校で学び明治7年(1874)帰国。両親の住む安中で布教活動をした。 市内には日本で初めて日本人の手により創立された安中教会が有形文化財として保存されている。明治8年 京都に同志社英学校(同志社大学)を創立した。明治23年没。墓は京都市若王子山頂にあり「勝 海舟」の筆による墓碑が建てられている・・・。とのこと。街道筋に「新島 襄旧宅」の標識が出ていたが、少し横道に入るので標識の確認だけにした。残念。

旧道をさらに西へ向かう。スタートして既に2時間半、日差しがますます強くなり、そろそろ休みを入れようと昼食のできそうな店を探したが全く見つからない。やむなく地元の女子高生に聞いてようやくラーメン屋に逃げ込んだ。 一同、流石にぐったり。これまで、休憩できるような木陰も店もなく、暑さの中ひたすらとぼとぼ走り。注文前に出された氷入りの水のピッチャーをお代りしてしまった。美味かった~。
NAKASENDO暑さにやられて皆あまり食欲がなさそう。でも、後半のスタミナが心配なのか、皆しっかり平らげていた。
ラーメン屋が18号線沿いだったので、旧街道への戻りの道筋を確認して再び走り始めた。現在地は杉並木で知られた「原市」、かっては、1キロ以上も続く杉並木であったが、次第に枯損が激しく、今古木として残っているのは10本ばかり。地元は並木を復活させようと花粉の害を起こさない種類の若木に植え替えているとか。僅かに残っている大木の下が今日最初の木陰であった。
NAKASENDO 木陰と言えば、日光の杉並木は樹高が40mぐらいの巨木が延々7キロも続く昼なお暗い木陰の連続だった。原市の並木もかっては日光杉並木と並び称されたが今は往時の面影は薄らいでしまった。数え切れないほどの年輪を重ねた古木の切り株が往時の姿を偲ばせるように展示されていた。

街道は直線的に延びて松井田宿を目指す。この街道筋には史跡、古跡が連なっている。「原市村戸長役場跡」は手を加えられず当時のままの姿で保存されている。
NAKASENDO まだ現役なのかちょうど門から車が出てくるところだった。その先には「原市高札場跡」の標柱、今風に建て替えられた建物であった。さらにその先に「八本木延命地蔵菩薩像尊」が往時を偲ばせる。この菩薩像は室町時代初期の作で「日本三地蔵」(新発田、壬生、八本木)の一つで、きれいに保存されている。 「磯部温泉」の標識、今、のんびり温泉に浸れたらどんなに幸せだろう・・と恨めしそうに横眼で見ながら通過。残念。 この付近は「郷原」地区。「原市の一里塚跡」の指標。さらにその先に安中藩お抱えの刀工の工房跡などが並ぶ。この辺りから道の前方に険しい山容の妙義山の姿がよく見える。それにしても、この郷原は江戸から30里(120キロ)。江戸が東京に替ってからまだ150年ぐらい、その間、東京市中から江戸の名残が次々消えてビル街に変貌してしまったけど、僅か120キロしか離れていないこの街道筋にまだ無数の江戸時代が何事も無かったように往時のままの雰囲気で残っているのは不思議な感がする。 この雰囲気を感じたい・・・、それが今回の宿場巡りとなって、その想いにどっぷり浸っての走り旅である。
NAKASENDO やがて中山道が国道18号と交差するところに、「妙義道常夜灯」が道の脇にひっそりと建っている。交通量の多い道筋なので反対側に渡れず残念。 妙義道は妙義山や磯部への近道で常夜灯は旅人にその分岐を知らせる灯りをともしていたのだろう。やっと松井田に入る。高崎を出て23キロ、もっと田園風景があるかと期待していたが、ほとんど街並み続きで、町境がはっきりしない。このことは、往時の街道の繁栄を裏付ける証しだろうか。 松井田宿は江戸時代に宿場が成立する以前から松井田の庄として開けた処で、戦国時代は関東の守りの最前線であった。城下町としても本陣2、脇本陣2の割には旅籠14軒と少ないのは、日が高いうちに難所の碓氷峠を越えたいと松井田に泊まらず先を急いだ旅人が多かったためである。また、信州から運ばれてくる年貢米の半分ぐらいは松井田で換金され江戸まで届くのは僅かであったと言う。
NAKASENDO 街角に松井田宿の昔の姿を描いた大きな案内図が設置されていた。宿の配置や、わき道などとても判り易く「百聞は一見にしかず」。 数百年も、もっと前からもこの地に人が住み着いてしっかりした社会を構成していたことを思うと、現代の我々の町の形態は少しも進歩しておらず、ただ家の材質が不燃性に変わったぐらいの変化しか見えない気がする。人間の知識、知恵の進歩にはどんな要素が必要条件なのだろう。
街中には古い建物がまだたくさん残っており、その中に文化財的な史跡が混じっているので目が離せないと思いつつも、何しろ傾きかけた太陽と競争しながらの街道走りなのでゆっくり足を止めての鑑賞が出来なかったのが残念。
NAKASENDO 道筋に 「五料の茶屋本陣 お西 お東」 の標識が立っていた。茶屋本陣とは中山道を往来する大名や公家の休憩所で名主の中島家が代々務めた。お西が本家、お東が分家。文化三年(1806)建築の板葺き屋根の2軒がともに県文化財として保存されている。
NAKASENDO 足元に「双子地蔵」がひっそりと埋められている。誰にも気づかれないような低い目線で長い年月行きかう旅人達を見送ったのだろう。 街道走りもいつの間にか西松井田の駅を過ぎて、ゴールの横川まで約4キロ。中山道はここで信越線を渡って細い山道に入る。道中初めての山道である。 集落も途絶えた静かな山の道は、漸く道中記の雰囲気で癒される思いがする。
NAKASENDO 夕日が山の端にかかるころ道筋に2体の地蔵と石碑が逆光を受けて静かに佇んでいた。「夜泣き地蔵」と呼ばれている謂われのありそうな地蔵と、小石で叩くと高音で澄んだ音が響くと言われている「茶釜石」、共に江戸時代の作。静かな風景である。緩やかな坂道を登ると目の前に色ずき始めた稲穂が飛び込んできた。見えたのが稲穂で良かった。久しぶりに人家の屋根が全く見えない里山の最奥である。古いものを慕って歩き始めると、なぜか街中でもビルの間に隠れるように残されている古い建物や木立がいち早く目に飛び込んできて、周りのビルが全く意に留めない感じがすることをあちこちで見てきた。
NAKASENDO 山歩きが終わって、最初に人家の屋根が見えた時の心の落ち込みは辛いものである。とは言え、この日も間もなく再び国道に出てしまった。再び線路沿いの道を行くと「碓氷神社」の赤い鳥居が見えてきた。日が陰って神社の奥は杉の木立ちの中に暗く沈んでいた。 道標が「坂本宿 5.0k」を教えてくれる。
NAKASENDOゴールの横川までは残り1キロ。
国道わきに今日の宿「東京屋」の大きな標識が建っていて一同歓喜。
午後5時丁度 横川駅ゴール。横川名物「峠の釜めし。おぎのや」をバックにゴールの記念写真。 遂に走り切った。 36度の猛暑の中、無謀とも言えるロングランを無事に走り終えたのは仲間のキャリアが生み出した慎重さに助けられたことを痛感した。
今宵の宿「東京屋」、創業100年の老舗旅館。明治の初めごろ東京からやって来た人が始めたと言うことで、地元の人たちは「東京屋さん」と呼びそれが屋号になったそう。標識の文字は 書道家 莫山先生の弟子であった女将さんの義弟の書による。
ご主人、奥様、お嬢さんみなスポーツマンで、とくにお嬢さんは「安政遠足マラソン」に毎年参加されているとか。我々走り屋の客は珍しいとのことで大変な歓待を受けてしまった。この日は図らずもホッシー(松本嬢)の誕生日(因みに、丁度50歳違い)、黒ちゃんが密かにご主人にケーキの手配をお願いして夕食は一転してHappy Birthdayの合唱、ホッシー大感激でした。あの気温と距離の割にはダメージも無く一同美味いビールに幸せ一杯の夜であった。

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【2010.9.5(日)】
今日も快晴。待望の碓氷峠越えの朝を迎える。黒ちゃんはやはり昨日の猛暑と少々のアルコールのため、体調不良で今日は休足日となった。
今日の予定:8時出発、坂本宿まで4kの足慣らし、いよいよ碓氷峠旧道に挑む。頂上の熊野神社まで7キロ。坂本宿の標高は465m、峠の頂上は1188m 勾配 10% 東海道の箱根峠越え(7%)より厳しい。また、この道は日ごろほとんど人の手が入っていないので足場が悪いと思われる。熊野神社着11時の予定。4kを降って11時半軽井沢駅着予定。ここまでで碓氷峠越えを終えて、体力に余力があれば、さらに6k西へ向かって「信濃追分宿」まで行きたい。
到着予定14時。軽井沢から西へ向かう中山道は宿場町として最もよく保存されていると言われている。「信濃追分」にゴール後は信濃鉄道で軽井沢に戻り、さらにJRバスで国道18号線を横川まで降りる。横川からはJRで高崎経由帰途に就く。
このような概況を確認して早めの朝食を済ませる。部屋の窓から眺めていると、下の駐車場に車を置いて年配のハイカーが独りで出発して行った。
「もう出かける人がいるよ・・」「まあ、我々は走るから途中で追い越すよ・・・」 藤岡さんとこんな話をして、2,30分後宿の皆さんに見送られて宿を出た。
快晴、残念ながら黒ちゃん抜きの峠越えである。静かな日曜日である。
NAKASENDONAKASENDO 宿を出て間もなく、道筋に旧街道の面影を残す庚申塚や道祖神が静かに建っている。横川の「茶屋本陣跡」を過ぎて間もなく「碓氷関所跡」の標識が威厳ありげに建っていた。これを見るのが今回の旅の大きな目的であった。
碓氷関所は昌泰2年(899年)碓氷峠の群盗取締のために設置されたのが始まりで、江戸時代の元和年間に「入り鉄砲に出女」取り締まりでこの地に移された。明治2年(1869)廃止されるまで、東海道の箱根、新居、木曾福島、と並ぶ幕府の防衛戦略上の重要地点であった。
NAKASENDO その昔、この関所を通った旅人は一日600人を超えたと言う。旅人が石の上に手をついてお辞儀をするように通行手形を差し出した・・と言う「おじぎ石」が残っている。

のどかな朝の街道筋に、この後間もなく血の凍るような悲惨な情景が待っていようとは・・。走り始めて2, 3キロ地点、坂道を縦一列で走っていたその矢先に、一人の中年のハイカーが顔面を血だらけにして降ってくるのに真正面から出会った。
NAKASENDO 最初は、転倒でもしたのかな?と思いながらも、先頭の藤岡さんが「どうしました?・・・」と声をかけたら「熊にやられた!」とのこと! 一同茫然。一瞬思考が止まった想いがした。さあ どうしよう!?、咄嗟に藤岡さんが「救急車を呼びましょう!」と携帯電話で119番手配。年恰好から今朝宿から見ていたハイカーであろうと思われる。今日の行程を資料で調べていると随所に「熊に注意」の活字がみられて、危険なルートであることは頭の中では理解していたが、目の前に現実となって直面すると流石に戦慄を覚える。
気丈な方で、歩きも話し言葉もしっかりしていたが、ここまで降りてくる間にまだ人家があるのに何故そこに助けを求めなかったのだろうか。 きっと、気が動転して言葉を失っていたのだろう。たまたま、こちらから声をかけたので、ふと我に返って応答してくれたのだろう。近くの小母さんがタオルを差し出し顔中の血を拭き取ってあげた。顔の左半分の大きな爪痕が痛々しい。やがて、静かな山里の朝に救急車のピーポーが聞こえ、遥か下の道を救急車、パトカー、なぜか消防車の3台が旋回灯をつけて登ってくるのが見えた。土地勘のない処からの「現在地」の情報がうまく伝わらなかったのか車は大きく迂回して漸く辿り着いた。
NAKASENDO 飛び降りてきた救急隊員が手際よく処置をし、ピーポーを鳴らしながら山を下っていく救急車を見送って一同安堵の息をついた。突然の出来事に一同声も無く唯呆然と事態を見送っていたが、再び静けさを取り戻しても、もう足はその先に進もうとはしなかった。
NAKASENDO パトカーが近郊の登山口の閉鎖のため山道の陰に消えていった。
かくして、「峠越え無謀隊」の計画は文字通りの無謀だったことを痛感して儚く終わった。山を降る道筋の家々から、突然の救急車に驚いた人たちは、熊が出た話は聞くけど、けが人が出たのは30年住んでて初めてだ と不安を募らせていた。もし我々がハイカーを追い越していたら我々が当事者だったかも知れない。 一寸先は闇 ! ! 一同興奮冷めやらぬ間に宿に帰着。事の次第を町内の有線放送で聞いていたが まさか我々が係わっていたとは・・・、と宿の皆さんも無事を喜んでくれた。
熊は本来非常に臆病な動物で、危険を知るといち早く逃げるが、逃げ切れない状態のときに凶暴になると言う。とくに子熊連れで突然の危機にあった時は咄嗟に子熊を木の上に避難させて親熊が相手に立ち向かう習性がある。
今回も、当日の東京新聞の記事によると、ハイカー(埼玉市、65歳)は前方の木の上に小熊がいることを見つけたので、驚かさないように そーっと後すさりで後退しようとした時、藪陰からの親熊に襲われた・・・と話していた。クマよけの鈴は持っていたがザックの中だったという。
これまで、北海道横断や、奥の細道 の峠越えで幾度となく熊出現の警告にあったが、まさか現実のものに会うとは思わなかった。クマよけの鈴は、市販されてる程度のものでは、音はせいぜい20m範囲ぐらいしか通らないのであまり役に立たない。鈴より体育の時に使うホイッスルが格段に音は通ることを大雪連峰の石北峠越えで肺活量が倍になるぐらい体験した。

と言うことで、長年願っていた旧碓氷峠越えの夢は、文字通り峠の彼方に消えてしまった。江戸から走りつないで福島県白河まで辿った「奥の細道」のその先を1年先延ばししての今回の峠越えは体力的に今年が最後の機会と思っての挑戦だったが果たせなかったのが残念である。再挑戦するか、撤退するか、来年78歳の体力と相談して決めよう。

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一休み 裏妙義山


HOSOMITI
2010.11.15
横浜中央走友会 山本 卓


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