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「中山道・宿場町」を訪ねて  高崎 ~ 海野宿  89Km  2010~2011年

NAKASENDO

【碓氷関所跡】


「奥の細道」第3ステージ(福島県・白河~仙台)を一年先送りして挑んだ昨年の「中山道」、二日目の峠越えを「クマ騒動」に巻き込まれて敢え無く断念した無念を晴らそうと再挑戦の秘策を練っていたが流石にあの凄惨な情景が目に浮かんで秘策の一歩が踏み出せなかった。悶々と過ごしていた時、不幸にも今回の「東日本大震災」が発生し、「奥の細道」の主舞台が被災地になって、この夢は断念せざるを得なくなった。かくして、中山道の挑戦が再燃して漸く方向が定まった。早速昨年のメンバーに声を懸けたが、元気者のホッシー(松本星美)が「クマが怖い」とニュージーランド土産のビーフジャーキーを差し入れして敢え無く脱落。替って牧野賢児君が何を思ったのか二日前に突然参加の申し入れがあって、ここに「第2次・旧碓氷峠越え無謀隊」の陣容が決まった。メンバーはサロマ湖100k10回完走の鉄人藤岡哲雄、マスターズ駅伝・神奈川代表 黒木純子、ランニングの真髄を探る新鋭牧野賢児、最近、すっかり走れなくなった 卓 の四名。一時は藤岡君との二人旅を覚悟したが元気者二人の参加で大いにチームらしくなった。

第2ステージ  -旧碓氷峠越え-
 
期日:2011.5.3
走区:横川~軽井沢
距離:18Km
走友:黒木 純子
   藤岡 哲雄
   牧野 賢児

<ルート図はこちら>


かくして、ゴールデン・ウイークの真ん中5月3日早朝6時26分横浜発湘南新宿ライン高碕行きに勢揃いして9時46分、スタート地のJR信越線・横川駅に降り立った。出発に先立ち、昨年お世話になった宿「東京屋」に再挑戦のご挨拶。ご主人、奥様とも再会を喜んでくれ、しっかり激励されて一同意気軒昂。因みに、今年はまだクマの話は出ていないとのことでホッとした。
NAKASENDO 10時丁度 横川駅をスタート、国道に出るとあれほど電車に乗っていたハイカー達が誰も国道を歩いていない。 そう、みんなバスで軽井沢方面に直行する人ばかりだったのだ。とてもゴールデン・ウイークの真ん中とは思えない静かな国道を一路坂本宿目指して走り始めた。天候 曇り、気温22度位、絶好のラン日和である。中山道は江戸と京都を結ぶ道として東海道と並ぶ2大街道であった。東海道には多くの川があり、ひとたび雨が降ると幾日も川留めにあい先を急ぐ旅人や川渡り(かちわたり)で男衆に背負われて川を渡る女旅人を困らせた。その為、碓氷峠の難所があっても川が少ない中山道を行く旅人が多く、特に女旅人に人気の街道であった。
今日の舞台はその碓氷峠である。その勾配は9%を越え、箱根にも勝る急勾配の峠道である。この難所を越えなければ中山道の先につながらない・・・。この宿命を背負っての再挑戦であった。

NAKASENDO 道沿いにはその昔の往来を示すように庚申塚や道祖神がひっそり佇んでいる。古い家並みの中に茶屋本陣跡が往時の威厳を偲ばせて残されている。茶屋本陣跡の少し先に「碓氷関所跡」が堂々とした門構えを見せている。この門は関所の東側にあったものを復元したもので、門柱と門扉は江戸時代のものである。 かって東門のあった場所にそれを示す標識が残されている。関所は西門と東門を設け、西門は江戸幕府の直轄であり、東門は安中藩の管轄であった。この関所は幕府の防衛戦略上の最重要拠点であった。この関所跡を見ることが、この「走り旅」の大きな目的でもあったので、目の前の堂々とした構えの門は思わず涙が出る程の感動であった。
NAKASENDO 門の中には旅人が大きな石に手をついてお辞儀をするように通行手形を差し出した・・・と言う「お辞儀石」が残されている。旅人がここで不安の塊の様になって通行手形を差し出した時の気持ちは、現代の我々ならさしずめ空港の税関でパスポートを提示し、顔写真の照合をするあの税関史の冷たい目つきを思い出してしまった。
関所跡を過ぎて間もなく、昨年「クマ騒動」で救急車を呼んだ惨劇の場を通り過ぎたが、宿から僅か2キロ位の処だったのは予想外であった。
NAKASENDO 大きなう回路を登り切ってからは坂本宿までの一本道。正面には今日の難所である刎石山(はねいしやま)が我々の挑戦を待ち構える様に毅然としてそそり立っている。坂本宿は日本橋から数えて17番目の宿場で1625年に、近くの住民を移住させて人為的に造成された宿場であった。それだけ、この峠越えが難儀だったのだろう。宿場には本陣2軒、脇本陣4軒が置かれていた。本陣が2軒と言うのは、この難所を越える大名の宿泊が図らずも同じ日に重なってしまった時の方策として設けられたもので、中山道69宿の中でも規模の大きな宿場であった。当時、この峠を越えた旅人の人数は一日600人を越えたと記録されている。まさに、大幹線であった。
道の脇に距離の標識が立っている。残念乍らキロ表示である。里(4k)、町(100m)で表示されていると時代感覚が捉えられたのに・・・残念。
ゴールデン・ウイークの真ん中なのにそれらしい旅行者やハイカーが殆ど見られないのは寂しい光景だった。日光の杉並木を走った時も殆ど人に会わなくて“ 勿体ないな~!” と吉富さんと嘆いたのを思い出した。
NAKASENDO 刎石山を真正面に見ながら真っ直ぐの道を進むと道の左右に宿場町の名残を留める古い建物があちこちに見られる。道の中程に当時の宿場の家並みを屋号で表示した大きな表示板が建てられている。当時、この宿場には160戸の商家が並び、中山道の中でも有数の大きさの宿場であった。 昔の旅人も今宵の宿を探してこの道を急いだのだろうか。
道の右側に「坂本小学校発祥の地」の碑が建っている古い建物は、「佐藤本陣跡」で代々佐藤家が経営していた。地元では、佐藤本陣を「下の本陣」、もう少し山手の先に残されている「金井本陣跡」を「上の本陣」と呼んでいた。金井本陣は1861年(文久元年)徳川家に降嫁する皇女和宮が江戸へ向かう道中宿泊したところである。和宮の一行は峠の頂上から刎石山の急坂を避けた回り道をして坂本宿に入った。 その道は和宮道として現在も残っている。本陣は大名が泊まる宿、脇本陣は上位の家来達の宿、下位の家来たちは旅籠に泊まった。坂本宿に至る街道筋はこれまで過ぎてきた安中や松井田の宿場と違って、公共関連の建物が殆ど見られず宿場町の名残を留める古い建物が一般の民家の間に挟まれてひっそり残っているのが如何にも宿場らしい風情である。江戸を出た旅人達はこの坂本宿まではほぼ平坦な道で旅の辛さを感じとれない気楽な道中だったであろうが、道筋の真正面に立ちはだかる刎石山(810m)を見て明日からの旅の厳しさを想い眠れぬ夜を過ごしたのではないだろうか。
NAKASENDO やがて、「永井脇本陣跡」が重々しい門構え往時を偲ばせている。この建物は現在も現役の住宅となっているので無暗に中を覗くことも出来ないが、先祖代々語り継がれてきた古い話をゆっくり聴く機会があれば・・・と思った。
走っていることを忘れて「宿場を辿る旅」を満喫しつつ、遥か先を往く仲間の背中を追いながら道の左右を写真に収めて束の間の一人旅を楽しんだ。長かったラン歴の中で気がつけば最早タイムや順位を競うレースは卒業して、気楽な「走り旅」を楽しみながら先人達の残した貴重な残影を辿ると言う付加価値をつけて心地よい汗を流している自分の幸せを痛感する。あちこちの旧道を訪ね歩いた中で、中山道が一番宿場の面影を色濃く残している様に思う。それは、新幹線や高速道路の出現によりJR信越線が横川止まりとなったことで旧街道筋が開発の恩恵から取り残されたことが大きな理由ではあろうが、むしろ近代化を急ぐ現代の風潮の中では貴重な歴史資産が昔のまま残されたことを喜ぶべきかも・・・。
NAKASENDO やがて、「酒屋脇本陣跡」、今は地区の公民館として瀟洒に整備されて現役である。酒屋を営みながらエリート家来達が客であった夜の宿は、昼間の大名の警護から解放されたお供の者達の天国であっただろう。多くの宿場では住人の男女比は女性が遥かに多かったと言う。この宿場も峠を越えて安堵する旅人、明日からの難儀に想いを巡らす旅人、夫々の想いの深い夜があったのだろう。
NAKASENDO 中山道の宿場は東海道と違って、冬場は客が途絶えることがあるので副業として「鍵屋」、「米屋」、「紙屋」・・などを営んでいた。風格のある屋号の表札と一緒に副業の表札を掲げた古い旅籠が道の両側のあちこちに残っている。旅籠が現在も堅牢な建築物として残っているのは、商売として非常に恵まれた職業であったこと。その為、建物に十分な資金をつぎ込めたことに因るのだろう。和風建築の基本構造は木と木を複雑な切り込みで組み合わせる所謂、「木造軸組構造」であったことで、地震に際しても前後左右の揺れに対して彫り込みの複雑な接触面による摩擦抵抗が大きいため崩壊に非常に強い特徴がある。この構造は非常に複雑で熟練した技術が求められるので、よほどの資力がなければ取り入れることが出来なかったのだろう。その結果として、創業何百年と言う旅籠が幾度もの地震に耐えて今我々の前にびくともしない威容を見せているのは素晴らしいことだと思う。金物や釘を使わない和風建築は世界的にも最も優れた技術として高く評価されている。この宿場町が栄えていたころから未だ僅か150年程しか経っていないのに、この僅かな時間の間にこの国は明治維新と言う劇的な改革を成し遂げたことで、この街道筋も多くの新しい生き方を模索した事だろう。その新しい生き方の中に江戸時代の文化が混在している旧街道の姿は近代化を急ぐ我々は一寸立ち止ってゆっくり振り返って見ることも必要ではないかと思った。

旅人たちに混じって多くの文人達もこの峠を超えて坂本宿に泊まっている。
若山牧水: アブト式鉄道が横川~軽井沢間に開通していたため、坂本宿はすっかり寂れてしまった。その頃でも牧水は定宿の「蔦や」に投宿して詩を読んだ。

     「秋風や 碓氷のふもと荒れさびし 坂本の宿 糸繰りの唄」

小林一茶: 故郷信州と江戸を往来するたびの旅籠は「たかさごや」一茶が投宿すると近在の同好者が大勢集まって夜更けまで自作の評価を仰いだといわれる。刎石山の「覗き」からの一首

     「坂本や 秋の下(くだり)は 夕ひばり」

松尾芭蕉: 芭蕉も諸国吟遊の折、いつの日かこの峠を越えたのだろう。

     「ひとつ脱うて うしろに負いぬ 衣かえ」

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若山牧水 小林一茶 松尾芭蕉
宿場町の風情を今に残す町並みに文人墨客の足跡を丁重に保存している地元の方達にとって、古きものと新しきものが醸し出す納まりのいい空間は時間を超えた心の財産としてこの先も長く生き残っていくのだろう。
松尾芭蕉が「奥の細道」で辿った道筋にも多くの宿場が残っており、その町の姿、形に宿場町独特の香りが感ぜられ、その雰囲気が中山道にも共通して日本の原風景として我々の心を癒して呉れている。 静かな街筋である。

走ってることをすっかり忘れて道草を喰ってしまった。  先を急ごう。
NAKASENDO 集落を離れて国道がいよいよ山道に差し掛かる処に「旧中山道」の標識が建っている。文字も薄れて如何にも旧道を思わせる風情で、その先に続く山道が薄暗い杉の木立ちの中に消えている。
 さあ、いよいよ今日の晴れ舞台である。時刻は11時。標識の側に早くも 「クマ出没注意」の警告板が迎えてくれた。急ぎ、クマ除けの鈴をザックに結び、首にホイッスルを懸けて準備OK。この鈴は、先年の北海道横断に際し、 旅の無事を願って友人が遠くミャンマーを旅した時のお土産である。音色が綺麗すぎてクマさんを喜ばせてしまいそう。反対に、ホイッスルは強烈な音色なので何となく頼もしい。
さあ、出発。道は時折ハイカーが通るぐらいで殆ど人の手が入っていない山道で、周りは杉の古木が立ち茂る昼なお暗いけものみちである。
この道は幕末の頃、安中藩が藩士の士気を高めるために安中~熊野神社までの7里(28キロ)を「安政遠足(とおあし)」として走ったルートで、現在も毎年5月に「安中侍マラソン」として侍に仮装したランナーがこの峠越えに挑戦している。我が国の山岳マラソンのルーツでもある。走友平石さんが毎年挑戦していたのを思い出した。それにしても、あの時代、予備の草鞋を何足背負っていたのだろ。
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熊出没注意 森の奥へ マラソン コース
その昔は、多くの旅人達の踏み跡で立派な道だったであろうが、今は半ば自然に帰ってしまった質素な「けもの道」が森の奥へと続いている。この道は刎石山の稜線まで約2キロが勾配10%の急坂が続き、山石がごろごろの悪路である。最近の登山ブームの中で、余り綺麗に整備されている道より野趣に富んでいて好きだ。やがて関所破りを取り締まった「堂峰番所跡」を通過。道の傍らに番所の礎石がのこされている。道の脇には「崖に注意」や「落石注意」などの標識が多くなり荒れた山道の様相が険しくなった。
やがて、地球創世記に火成岩が冷却、凝結するときに出来た「柱状節理岩」の巨大な板状岩塊の下をくぐり荒れた道を登る。この辺りには「南無阿弥陀仏」、「馬頭観世音」、「上がり地蔵下り地蔵」などの碑が沢山残されており往時の旅人の慰みになっていたのだろう。
それにしても、「安政侍マラソン」は全長28キロの最後の8キロがこの山道、何と過酷なレースだろう。しかも多くのランナーは侍装束に仮装してのランとなれば・・・。道中、水場が何処にも無いので大会事務局は頭を痛めたであろうと思う。我が走友・平石さんが贔屓にして毎年参加していたが、あの根性の持ち主にふさわしいルートである。
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岩の道 弘法の井戸 覗き
やがて、弘法大師が掘り当てたと言う伝説の「弘法の井戸」、井戸は古いが天蓋が新しいのは一寸残念。次いで刎石山の中腹から坂本の宿場を見下ろす「覗き」。1.5キロで約300m登った。流石に坂本の町が随分低く見える。つい先ほど走って来た国道18号線が一直線に延びている。あの平坦な街道の先端が手前の山の懐に消えて峠道が始まる。ここから宿場町を見下ろして旅人達は何を思っただろう。江戸に続く街道に安堵しただろうか、薄暗い杉の木立ちの奥に消えていく道に先の長い京への旅を憂いたろうか。この峠越えが中山道で最も険しい難所であった。

「覗き」を過ぎると稜線が近い。道はややなだらかになって やれやれ である。緩やかな道を進むと「四軒茶屋跡」、今も当時の古い石垣が残っている。 この石垣を見ていると、現代の職人が当時のままの仕事着と、当時のままの手法で重い石をつんでいる姿が想いえがかれる。時間とは何だろうと思う。
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碓氷峠関所跡 一里塚
この付近はもう刎石山の頂上である。近くに「碓氷峠関所跡」がある。ここは898年(昌泰2年)山賊取り締まりのために設けられたと案内板にあった。休憩用のあずま屋で給水休憩。流石にこの急坂は走れなかった。
道は漸く稜線に出て緩やかな落ち葉の道になった。厚く積もった落ち葉のクッションが何とも気持ちがいい。標高が高くなって今が丁度新緑が芽生えた頃。うぐいす色が柔らかい。 ここで漸く走れる道になった。   満を持していたのか藤岡君、牧野君が気持よさそうに走りだした。走るのは若い者に任せてゆっくり落ち葉の道を楽しむ。道の傍らに「一里塚」の標識がひっそりと建っている。どこから数えての一里なんだろう。道が尾根筋になったころに「堀切跡」の表示板が建っている。豊臣秀吉が小田原攻めの時、信州、北陸軍を防戦するために馬の背の細い尾根道の両側を更に細く切り落として敵の侵入を防いだところである。道の幅は2,3m。戦略上重要な要衝だったのだろう。やがて、「馬頭観世音」の碑が「北向き」、「南向き」と二つ建っていた。更に急な坂を登りつめた処が「座頭ころがし」の難所。目が不自由な人はとても歩けない・・・と言うところから名ずけられたと言う。
この付近はまだ殆ど新緑は見られず、その中に「山つつじ」のピンクの花が一人だけいい子然として咲き誇っていた。 麓は既に春が終わろうとしているのに標高が1000mを超えると春の気配にはまだ遠く冬枯れの山道であった。その中に咲く一本のつつじに心が癒される思いがする。
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座頭ころがし 花とペア 誰が どうして?
枯れ葉のクッションを楽しみながら可なりの急坂を登り切ると道は殆ど平坦な尾根道になる。もう大きな坂道はなさそうだ。
暫く行くと道の傍らに何故か乗用車が乗り捨てられている。一同びっくり。どうしてこの山道を超えて来たのだろう? 道は深いV字でとても車が走れる道ではない。 そこで一同あれこれの推理をした結果、一番それらしい・・・と落ち着いた説は、「車ごとUFOに拉致されたが、同乗の女性だけが連れ去られ男性と車をこの山に捨てられた・・・」 というもの。それ以外考えられない。 (こんなバカな事を考えてるから中々ゴール出来ないのだ!)
車事件で現代に引き戻されたが本論に戻ろう。
間もなく「栗が原」。現在は廃道となっているが明治天皇が馬車で巡幸した道路と中山道の分岐点である。ここに群馬県初の交番「見回り方屯所」が出来た。この付近はゆるい登りだが道幅が広く、冬枯れで明るいのが気持ちいい。のんびり走りには快適である。藤岡君、牧野君は山岳レースと間違えたのか見る間に背中が遠くなってしまった。この付近にも「クマ出没注意」の標識が建っているので、本人たちには悪いけど「クマ除けの鈴」代わりになってもらった。
それにしても、こんなに綺麗な山道なのにハイカーに殆ど会わない。熊野神社から坂本へ降りるコースは日曜ハイカーには絶好のコースなのに。日本人は日曜日の使い方が下手だな~。
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最後の頑張り処 小憩 碓氷川 水源地
道の脇に「あと3km」の標識。侍マラソンのゴールまで後3キロ、まだ3k もあるのか・・・! ランナーの悲痛な叫び声が聞こえてきそうだ。急坂を登り終えたランナー達は順位もタイムも全て投げ捨てて夢遊病者の如くひたすらゴールを目指して落ち葉の道をさまよったのだろう。これからの3kは辛い。
やがて、「一つ家」の標識がある。その時代、ここに住む老婆が旅人を苦しめたという、世に言う「鬼ばば」のモデルであったらしい。次いで、「陣馬が原」の標識、子持ち山の麓を舞台に争われた武田方と上杉方の合戦の古戦場跡である。戦国時代の国盗り合戦が、この人知れぬ深山で繰り広げられていたのを知ってか知らずか新緑を迎える山道に暖かい春の気配が溢れていた。
NAKASENDO 旧中山道は「陣馬が原」から分岐して熊野神社に至る本道と、直進して皇女和宮が坂本に降りる道として開かれた和宮道となる。和宮道は文久2年開鑿された新しい道で、走るにはこの道がいいが今日の目的から我々は旧道を選んだ。 分岐の標識。右方向が旧道(本道)ハイカーも通らないのか道は細く、荒れたままの山道だった。この道筋に碓氷川の源流が湧き出していた。遂にあの大きな碓氷川の誕生の地を確認した。
ゴールの少し手前に「赤門屋敷跡」の碑があった。これは峠越えの大名が熊野神社に道中の安全の願を済ませ小憩したところである。この赤門は加賀藩前田家の門に倣ったもので、これと同じものが「東大の赤門」として現存している。

午後13時15分 熊野神社前にゴール! 念願の峠越えを完走した
横川駅を出発して3時間15分、あちこち寄り道しながらも略予定通りのゴールであった。この道中はマラニック(マラソン・ピクニック)気分だったので 一同さしたる疲れもなく快心のランを終えた。
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ゴール地点 やれやれ 分水嶺
まずは熊野大権現に完走の報告を済ませ、峠名物の力餅をバックに写真。久し振りに大勢の人ごみを見た。 頂上は流石に気温が低く、体がどんどん冷えてくる。暖かい物を・・・と「峠のそば屋」に駆け込む。この店の前が峠の分水嶺。長野県側に流れる水は千曲川から信濃川を経て日本海に、群馬県側は碓氷川、烏川から利根川を経て太平洋に至る。僅か10センチ?の幅が太平洋と日本海に水を分ける・・・。
「走り旅」の感動の瞬間である。
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熊野神社 旧中山道 漸く春

さあ、今日の最終ゴール地点 軽井沢駅 まで旧道481号の8キロを下る。途中瀟洒な別荘が立ち並んでいるが殆ど人影が無い。ゴールデン・ウイークの軽井沢はまだ春には早すぎるのか。Cooling downの のんびりラン が楽しい。
それにしても、峠に向かう軽井沢からの登りは、坂本からの登りより遥かにきついルートである。昔の旅人はそのことを知って登ったのだろうか。下るにつれて気温がぐんぐん高くなるのが判る。 やがて国道18号のバス路線に出る。この付近で漸く満開の桜に会えた。

15時00分  軽井沢駅前ゴール
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旧街道を辿る「走り旅」で中山道は早くからの目標であった。これまで走った旧道は古さを残しながらも都市の一端を担った家並みであったが、中山道は幸か不幸か、近代的な交通機関は旧碓氷峠越えの道を往時そのものの姿で今に残してくれた。貴重な文化遺産である。明日につなげる旅のためにもどうしても越えなければならない難所であった。
15時30分発 JRバスで横川へ下る。この路線には182か所のカーブがあって走るには危険すぎる。当初はクマ騒動を避けて山越えを諦め、独りこの道を走ろうか・・・と考えたが、旧峠越えを走ってこそこの計画の命、と再び山越えに戻って今日念願を果たした。しかし、このカーブの数を思うと止めて良かった。
高碕からの始発電車にBox席を確保し当然の乾杯! 無事に走り終えた満面の笑みに冷たいビールがキリキリと沁みわたって行った。  念願の碓氷峠を越えた! この先に続く中山道・・・、又 資料と地図にドップリ浸かる楽しみが待っている。

HOSOMITI
May.30.2011
横浜中央走友会 山本 卓


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