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「中山道・宿場町」を訪ねて  高崎 ~ 海野宿  89Km  2010~2011年

NAKASENDO

【浅間戴冠】


高崎から走りつないできた中山道も2011.5.3 念願の旧碓氷峠を越えて軽井沢に入った。いよいよ待望の信濃の国への旅, 思い描いていた中山道の道筋を地図で辿って気付いたのは、中山道は信濃追分で北国街道を分岐して佐久を経て下諏訪に至る。途中 宿の在りそうな町もなく鉄道からも遠く離れて、老いの身には過酷な状況であることが判った。ここで急ぎ計画を中山道から北国街道に変えて小諸の古城に島崎藤村を訪ねることにした。懐古園の最奥、千曲川を見下ろす高台にある「千曲川旅情の歌」の詩碑を読むことが子供の頃からの願でもあった。父がまだ小さかった私を膝に乗せてこの詩を耳元で口ずさんでいて、意味も判らずその詩を殆ど覚えてしまった・・と言う父との想い出にもつながる身近な詩に会える喜びでもある。

第3ステージ  -小諸宿、海野宿を訪ねて-
 
期日:2011.9.18~19
走区:軽井沢~海野宿
距離:36Km
走友:藤岡 哲雄
   山村 広樹
   松本 星美

<ルート図はこちら>


【9月18日】
今回は一週間前に肉離れを起こして無念の離脱をした黒木さんに替って山村君が参加、平均年齢をぐんと下げての第3ステージとなった。何となく通いなれた?信越線横川までの電車の旅、予定通り10時発JRバスで碓氷峠を越えて10時36分軽井沢駅に到着。台風15、16号の隙間に出来た快晴の朝である。
NAKASENDO 標高が1000mを越えるので下界より涼しいだろうと期待していたが、何と32度の猛暑。去年の第1ステージでは36度の酷暑であったことを思い出した。暑くても晴れている方がいい。高原の澄んだ空気の中では陽ざしが強烈でサングラスなしでは無理。 真夏の喧騒と秋の紅葉の谷間の軽井沢は連休中なのに意外に静か。今日の行程は旧街道を辿って小諸までの20キロ。体力の低下を知りつつも“20キロ なんぞ一寸お隣さんまで・・・”と言う安楽さ。この齢でもまだ距離の怖さが全然ない。つい先年、北海道ランで連日50キロを走り続けたことの後遺症?か。
いつものようにペットボトル2本を背負い、駅前でアリバイ証明用の写真を撮って11時丁度国道18号を南に向かってスタート。  (この時から暫く間の写真がカメラの故障でお見せ出来ないのが残念。)
連休中なのに車が少なく強烈な日差しのもと、時折訪れる木立ちの日陰は流石1000mの高原の涼しさで、その先に足を進めるのがつらい。

NAKASENDO期待していた浅間山は山頂付近が雲に隠され、あの穏やかな山容が見えないのが残念。道は穏やかに起伏し、周りの景色は秋の空に浮かぶ真っ白な雲と濃緑の木立ちのコントラストを描いてつい立ち止まってしまいそう。 この風景は北海道横断の際の「網走~美幌」の風景を思い出した。
NAKASENDO やがて、中軽井沢駅を過ぎたところに「沓掛宿跡」の標識がひっそりと建っていた。沓掛宿は皇女和宮が「追分」の名を嫌ってこの本陣に泊ったと言われる。浅間山の噴火とその後の大火で宿場の多くを焼失、今はその名残さえも少ない。中軽井沢駅の少し前に軽井沢町役場があった。町の中心部から3,4キロも離れた郊外の役場では生活者は大変だろうな~。
『この辺りでカメラの不調を発見。液晶にトラブルが発生して画像の表示が不能になった。カメラに詳しい山村君の診断でも回復不能とのことで止む無く携帯のカメラに託すことにした。携帯のカメラは“奥の細道”芦野宿の先の「遊行柳」を訪ねた時も同じ故障で、この時携帯にカメラが付いてることを思い出し以後の写真にした時以来のこと。』
淡々と続く道に左後方から交差する道がある。「女街道」である。 幕府が碓氷峠の関所で江戸への出入りを厳重に取り締まっていた「入り鉄砲に出女」を嫌った女性達が碓氷峠越えを避けた迂回路である。
如何にも高原らしく緩やかに起伏する道を秋の日差しを一杯に受けての独り旅は至福の一瞬である。若者達は遥か先を走って姿も見えない。どんなに遅くなっても後2,3時間、再び見ることのないであろうこの日本の原風景みたいな景色をしっかり網膜に保存しておきたい。
NAKASENDO右手に如何にも古そうな、しかし堂々とした建物が現れた。「布屋」と表示されている現役の住居である。何を商っているのだろう。コスモスが満開だった。この道筋に「借宿跡」の表示がひっそり建っていた。間もなくの「追分宿」を待てずに疲れ果てた旅人がここで草鞋を脱いだのだろう。「借宿」は「仮の宿」だったのか。
NAKASENDO 間もなく「追分一里塚」が大きな木陰の下にひっそりと静まり返っている。長い間どれほどの旅人達がこの塚を目指して歩いたのだろう。
今回、ここで大きく道を間違えてしまった。追分宿の旧道はこの一里塚から右への道を往くべきを国道をそのまま直進してしまった。地図の上では多くの見どころが在る筈なのに一向に見えないうちに旧道が国道に合流してしまった。残念至極! この宿場町には、追分宿資料館、浅間神社、本陣跡、脇本陣跡、高札場跡、芭蕉の句碑 などなどが残されている。中山道と北国街道の交わる交通の要所としてこの宿場には旅籠70軒、茶屋18軒と街道有数の賑わいをみせたという。
追分宿は浅間三宿(軽井沢、沓掛、追分)の中では最も多く宿場の面影を残している。この付近からみる浅間山は裾の広い穏やかな山容の筈だが今日は頂上付近を雲に遮られて全容が見えない。残念。この風景は文芸作品や劇作に数多く登場する日本の時代劇作品の原風景とも言える処で、夕暮の迫る浅間山を背に網笠を深く被った国定忠治や沓掛時次郎が今宵の宿へと足早に歩いた道である。
そもそも、今回の中山道ランの発想は、旧街道に残る時代劇の背景、とは言え僅か150年前まで実際に機能していた社会構成の記念碑的な宿場跡をこの目で見ておきたい・・・と言うところから始まったことである。中でも、旧碓氷峠越えとこの信濃追分宿は資料を読み進むにつれてあたかも自分が街道を歩く旅人そのものにしてしまう郷愁と憧れの群像であった。
NAKASENDO 宿場の入口に「追分宿」「追分宿 郷土館」「堀 辰雄文学記念館」の表示板が 堂々と建っている。郷土館は面白いだろうな~。
宿場町を訪ねる旅は、古い建物や石碑など残された形を見ることもさることながら、資料館等でその時代の生きた証を直接見ることが一番楽しい。
NAKASENDO 宿場の南のはずれで街道は左「中山道」、右「北国街道」に分かれる。この分岐点を「分去れ」(わかされ)と言う。古い道標は「延宝七年」(1679)の建立で「従是北国街道」、「従是中仙道」と刻まれている。風雨に晒されて三百年もの間街道を見つめてきた堂々たる風格の道標である。常夜燈は寛政元年(1789)に建立され、台座に「従是伊勢」と刻まれている。この常夜燈も疲れた旅人の足元を照らし続けてきたのだろう、これも堂々たる風格である。
尚、写真に見られる左側の道は国道のバイパスで、実際の中山道は国道よりもっと左を佐久に向かって南下していく。
「分去れ」の前方右手に庚申塚が建っている。ここは明治維新当時の「追分刑場跡」である。資料によると慶応四年、官軍の急先鋒であった「赤報隊」が「偽官軍」とみなされここで処刑されたと言う。
NAKASENDO NAKASENDO 道は淡々と登り下りを繰り返して南を指している。先行する若者達を遥か後ろから見ながら初秋の陽光の下を走る。至福のひとときである。老いの身として、この先またこの様な喜びの旅が出来るだろうか。ならば、長年の願いを叶えるこの旅をしっかり味わおう。
「平原東」の信号で旧道は国道を右に分岐する。小諸に通じる旧街道である。街道に入ってすぐ右に古い神社がある。「金山宮」である。お寺を見なれた目には久し振りの神社である。
その近くに「十念寺」の石碑が建っている。十念寺は「一遍上人」が伝えた「念仏踊り」と「恵心僧都」が伝えた「二十五菩薩来迎会」が有名だと言う。

街道はこれまでの喧騒なバイパスから離れて、左右に白壁と黒板塀の如何にも歴史を偲ばせる古い家が現代風の家並みに混じって点在している。真っ白い土蔵と茅葺や松の生垣の色のコントラストが秋の日差しを受けて如何にも街道らしい風情である。しかも、これらの建物は今も現役である。
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【 日 本 の 美 】
近代建築に覆われている現代の生活に、このような古い建築様式を保っている居住者は住み心地などをどのように理解しているのだろうか。
NAKASENDO 白壁の蔵造りの家に見事な松が門前を飾っている。「平原宿長松」と呼ばれる有名な松の構えである。加賀の大名も称賛した と記されている。白壁と松の緑の織りなす絶妙なバランスは古くからこの街道筋に生きた人々の昂揚した精神文化の表現だったのだろう。庭先のガーデニングと違ったスケールの大きなガーデニング文化である。
この道筋を辿っていて、日本人が持っている美に対する感性と、多くの機能を通して見聞きする他の国々の美の表現を同時に知ることが出来る現代に生きていることの幸運を感じる。
NAKASENDO道筋で又珍しいものを発見した。「平原の懸樋」と言われる水路である。坂道の頭上を横切るように大きな水路が掛けられている。と言うことは、この樋は道路よりも3mぐらい高い水路の水を流していることになる。何故この様な奇妙な水路が出来たのだろうか。この付近の地形のなせる妙技である。先人たちの生活の知恵の素晴らしい事をあちこち見てきたが、本当に合理的な知恵に基いていることを見ると現代人は知恵を絞って生きてるとはとても思えないのが恥ずかしい。
この辺りから家並みが込んできて小諸が近いことを教えてくれる。旅は田舎道が楽しい。
NAKASENDONAKASENDO 間もなく「ここは坂の町 小諸」と言うかわいらしい道標が建っている。昔、出張で信越線に乗ったころ遂に小諸に降りることなく過ぎてしまったがこの町がこんなに坂の街とは知らなかった。
小諸市内に入って「四ツ谷東」の交差点で国道18号と別れ、旧道で市内に入る。交差点の側に「唐松の一里塚」がある。対の片方は道路拡張のため取り壊され、工事終了後再建された。街中の一里塚である。
NAKASENDO 市内に入っても走り足りない藤岡さんが、駅で会うことにして先行していたが途中で引き返してきた。 綺麗な松を見つけた・・・とのこと。 駅近くの海応院境内の「潜龍の松」である。関ヶ原に向かう豊臣秀忠が真田昌幸 の抵抗に会って小諸に足止めされた折、海応院住職が間に入って和睦した。秀忠はお礼に参勤交代の大名と言えども駕籠や馬から降りて門前を通らなければならない「下馬札」を贈った。と伝えられる由緒正しいお寺である。この庭の松はこれまで見てきた数々の松の中でも秀眉に価する見事なものであった。夕暮れで写真がうまく撮れなかったのが残念であった。

NAKASENDO 午後4時 小諸駅にゴール。
所要時間5時間。気温32度のもとでのぶらり旅は脱水症状寸前で無事走り終えた。今宵の宿は駅前の小諸ロイヤルホテル。近くの温泉で一日の疲れを癒し、夕食は近くの海鮮料理。 山の中の海鮮料理は少々抵抗もあったが、味も料金も抜群。 冷たいビールと冷やした地酒が水気に飢えた胃袋にキリキリと滲み渡って、元気に走り切った老いの身に明日の鋭気を充電してくれた。
「中仙道」の呼び方は「中山道」より何故か郷愁を覚える響きがあり好きだ。それはつい150年前まで振り分け荷を肩に寒い風に身をかがめてひたすら歩き続けた旅人の生活の道だったから。夕暮れの浅間山を見ながらふと思った。
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【9月19日】
久し振りのロング・ランと程良いアルコールで熟睡。6時半目が覚めると藤岡さんは、朝の散歩でもう懐古園を一回りしてきた・・とのこと。  実は、この計画の初めは二日目はこの懐古園だけで終わる予定だったが、ルートマップを検索しているうちに、小諸の先12,3キロの街道筋に「海野宿」と言う国の重要文化財として保存されている宿場町があることが判った。 折角の機会だから、これを見ずして帰れない・・・と急遽二日目の日程に組み込んだ。小諸~海野宿まで約13キロ、ゆっくり、きょろきょろで約2時間。 帰りの電車の時間を調べて宿を9時に出ることにした。しからば、それまでに懐古園を見てこなくては・・・。本来は入園料は500円だが、この時間は地元の方々の朝の散歩で出入り自由とのこと。しからば我も・・・と朝食も取らず宿を飛び出した。駅側の地下道を潜ると其のまま正面の門に下っていく。

NAKASENDO 城の入口が下り坂と言うのは珍しい。小諸城は地形的に城本体は城下町より低いと言う特異な事を先にも書いたが、この理由は場内を一回りして、なるほど・・・と判った。それは、城の三方が千曲川に面した絶壁と、もみじ谷の深い渓谷、白鶴橋のかかる絶壁を天然の要害とする地の利を得る為ではなかったかと思いを巡らす。
「懐古園」と書かれた大きな額は徳川家達の筆によるもので国の重要文化財である。城内へは寄棟造りの二層の城門の堂々とした構えで迎えられた。門をくぐる時は一瞬身の引き締まる思いがした。
NAKASENDO 小諸城は木曾義仲の輩下であった小室太郎兼光がここに館を建てたのが始まりで、その後戦国時代の波に洗われて「鍋蓋城」、「乙女坂城」別名「白鶴城」と次々築城、落城を繰り返し最後は武田信玄によって築かれた「酔月城」が現在の小諸城址である。
NAKASENDO 門をくぐると重々しく積まれた城壁が歴史を偲ばせ、今にもおっとり刀の侍が飛び出して来そうな気配である。誰にも会わず、一人で歩くと自分が時代錯誤に落ち込みそうになる。道は右折して二の丸跡へ続く石段になる。二の丸跡は白鶴城跡でもある。 石段の城壁に若山牧水の詩碑が建っている。
懐古園には明治以降も多くの文人墨客が立ち寄っている。

NAKASENDO道を辿ると待望の「藤村記念館」である。記念館は時間が早すぎてまだ開いてなかったが、静かなたたずまいに落ち着く一瞬である。藤村の胸像がこれから数をます来客を迎えるかの様に端正な顔だちで鎮座している。初対面である。
父の膝のうえで聞いた詩以来、数十年もの憧れの偶像である、何か、崇高なものに身を伏せる様な思いがして身じろぎもせず見入ってしまった。 離れがたい思いを振り切って先へ急ぐ。
樹齢500年を超す大ケヤキは長年の戦乱の世を嘆き現世の平穏の世を慈しむかのように静かに朝を迎えていた。
藤村記念館の敷地の中に抒情歌「椰子の実」の詩碑がたっている。 この歌が藤村作とは最近まで知らなかった。
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遂に「千曲川旅情の歌」の詩碑に辿り着いた。
NAKASENDO 千曲川を見下ろす高台の上に静かにおかれている。何十年もの間恋焦がれていた人に漸く巡り合えたと言う思いである。何はともあれ記念の写真を撮ってもらったが、なぜか真っ黒な写真になってしまった。この詩に会いたくて高崎から75キロを走って来た。
漸く思いが叶った感動の日となった。
他愛ないことでも、何十年も思い続けるものを持っていることは、生きている緊張感を生み出すものとして大切な事ではないだろうか? と独り合点していた。

        千曲川旅情の歌     島崎 藤村 詩

      小諸なる古城のほとり  雲白く遊子哀しむ
      緑なすはこべは萌えず  若草も敷くによしなし
      白銀のしとねの丘辺   陽に溶けて淡雪流る
      暖かき光はあれど    野に満る香りを知らず
      浅くのみ春は霞て    麦の色僅かに青し
      旅人の群はいくつか   畑なかの道を急ぎぬ
      暮れゆけば浅間もみえず 唄哀し佐久の草笛
      千曲川いざよう波の   岸辺の宿に上がりて
      濁り酒濁りて飲みて   草枕しばし慰む。
         ・
         ・
NAKASENDO 島崎藤村は小諸義塾を開いた木村熊二に招かれて明治32~38年まで国語と英語の教師をしていた。「千曲川旅情の歌」、「千曲川のスケッチ」などはこの滞在中に発表された。
「惜別の歌」、戦後の学生に一番よく歌われたのはこの歌ではないだろうか。この歌の原詩は藤村の「高楼(たかどの)」によるものだと言うことも最近まで知らなかった。懐古園のひっそりした高台にこの歌の歌碑と、由来を書いた碑が残されている。
藤村の原詩を戦時中、中央大学の学生だった藤江英輔氏がその詩の一部を読み替えて学徒出陣する仲間を送る歌として中央大学の学生歌として長く歌われていた。現在我々が唄う歌詞はこの学生歌の流れを汲むものである。
昭和35年、島崎家から改作の許しを得て今日の歌詞になっている。藤村の原詩は、嫁ぎゆく姉を送る妹との対詠として長々と続く詩であるが、藤江氏の詩は姉から妹への部分がすべて削られている。戦時の時局から当局の目があったのだろうか。
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         「惜別の歌」        島崎 藤村  原詩
                       藤江 英輔  改詩


      遠き別れに耐えかねて この高殿に登るかな
      哀しむなかれ我が友よ 旅の衣をととのえよ

      別れといえば昔より  これ人の世の常なるを
      流るる水を眺むれば  夢恥ずかしき涙かな

      君がさやけき目の色も 君くれないの唇も
      君がみどりの黒髪も  またいつか見んこの別れ

      君が優しきなぐさめも 君が楽しき歌声も
      君がこころの琴の音も またいつか聞かんこの別れ

慌ただしい懐古園であったが、永年の願ひが叶った貴重な時間であった。
次の「海野宿」への出立に送れぬように急ぎ宿に帰り、慌ただしく朝食を済ませて9時出発。若い二人は懐古園に興味がないのか何の話もない。折角小諸まで走ってきて素通りは一寸哀しい。小諸~海野宿は距離約13キロ、国道と旧道が入り乱れているが旧道の大部分は国道新設に際し拡幅されて街道の面影を失ってしまっている。止む無く、旧道の枝道をを辿ることにした。昨日の疲れもなく強い陽ざしの中に飛び出して。今日も暑い。
NAKASENDO 直ぐ近くに「本陣主屋」の標識、ここに「本陣」があったが、現在は他所に移築して保存されている。その隣にも江戸末期の建築がそのまま残されている。ここはまだ現役で「小林・・商店」古い看板が架かっていた。田中駅を目指して静かな田舎道を走る。この道は街道の更に脇道なので、歴史を偲ばせる様な建物などはあまり見られず、そのうちに12キロを走り切って10時半「しなの鉄道 田中駅」に着いた。
ここから「海野宿」までは1.6キロ。道は途中から遊歩道となり快適。
NAKASENDO 「本海野」の踏切に「海野宿」への標識が建っている。
さあ 着いた。 これまで、小諸の事を知る機会は多くあったが、有名な小諸の陰に隠されて「海野宿」の事はあまり世に知られることはなかった様な気がする。
今回も、偶然知ったと言う位で、そのせいか宿場に通じる道はこの標識の様にひっそりした道であった。
宿場は大きな保存区域の中にある。
NAKASENDONAKASENDO 入口では大きな自然石に刻みこんだ「海野宿」の碑が迎えてくれた。
この宿場は寛永2年(1625)に開かれた。当初は問屋(交易物や旅人の荷物などの受け渡し業、今風日本通運?)だけの集落であったが、千曲川の大洪水(卯の満水と言われた)により、隣の田中宿が壊滅したため海野が宿場の役割を引き継ぐことになった。地もとの有力者であった問屋業の藤田家が本陣となった。本陣とは、大名や公家などが泊まる宿で、脇本陣は高級武士の宿である。その他の家来たちは旅籠(はたご)に泊まった。 江戸時代は北国街道を通る北陸諸藩の参勤交代や、佐渡の金を江戸に運ぶ重要な街道であった。
宿場の入口に樹齢700年と言われる「大楠」が時代の証人の様に威厳をもって枝を広げている。手を広げたホッシー(松本星美)が小さく見える程の大木である。 この町並みは「重要伝統的建造物保存地域」に指定されている国の重要文化財である。 この様な歴史の凝縮された姿形を実物で見ると、現代の繁栄した姿、形が当たり前と見ている我々も、つい150年前に生まれていればこの風景の中でゆったりと生きていただろうと思う。近代化の早さにうろたえているのが現代の我々ではないかと思ってしまう。
路の両側に並ぶ白壁の土蔵に格子戸の建物は本当に美しい。町並みの中程に大きな屋敷風の建物がある。「本陣跡」の石碑が建つ藤田家である。まだ現役で車が出入りしていた。
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古い佇まい 本陣跡
この町並みを見て気付いたのは、日本建築の直線の美しさである。屋根と軒の水平、柱と壁の垂直な線。現代風な建物の複雑な構造に比べ、何とシンプルな清潔さだろう。広大さと重々しさは、現代人と尺度が違うことを痛感する。

路の中央に川が流れている。これは当時のままであると言う。この川で旅人達は自分より先に疲れて辿り着いた馬の脚を冷やしたと言う。又、近くの家の軒下に面白い格好をした石の器が鎮座している。「馬の塩舐めの石」である。これも、当時の人たちにとっての馬への想いの深さがうかがえて微笑ましい。 これまでもあちこちで沢山の「馬頭観世音」の塔が見たが、これらもその証であろう。
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北国街道 馬の塩舐め石 家並み配置図
また 珍しいものを見つけた。この宿場の中の家の配置を示す表示板である。
街道に沿って約300m位にわたる家並みを書きだしたもので往時の宿場の繁栄を示す貴重な資料である。同じものが碓氷峠の麓の坂本宿にもあった。 よくこの様な古い資料が残されていたものである。
その近くに面白い表示板が建っている。「卯建つ」(うだつ)の解説である。
巷間言われている「ウダツが上がらない・・・」とは、一般に「頑張ってるけど商売が中々上向かない・・・」などに言われることが多いが、「うだつ」とは本来、建てこんだ家並みの中で隣からの「貰い火」を防ぐために、隣との間の土壁を大きく張り出させた壁のことで、この壁を大きく作ることが財の大きさを表すことにされてしまったらしい。「うだつ」にもあれこれ形があり、その形を変えて「負け惜しみ」見たいに我が家のサイズを語っている微笑ましい姿が思い描かれる。
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「卯建つ」の解説 「卯建つ」の在る風景 豪壮な構え
大きな「うだつ」の家があった。どんな人が住んでいたのだろう。 広々とした屋根をもつ壮大な家。見ていて気持ちも壮大になる姿である。

美しいと感じる瞬間である。日本人の持つ美に対する感性はこの小さな島国の中でどのように芽生え、育ったのだろう。移り変わりの激しい現代の流れの中で、この日本の原風景を保存しよう!と思いついた最初の一人に感謝したいと思う旅であった。
 来た道を1.6キロ、田中駅へ、駅前の「・・・湯」で旅の汗を流し、電車バスを乗り継いで横浜に帰りついたのは夜8時であった。もちろん、車中での「お疲れさ~ん!」の乾杯は忘れなかった。


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【付録:第3ステージ再訪 写真集 (2011.9)】は、こちらから

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横浜中央走友会 山本 卓


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