TITLE

ヒマラヤ紀行
Everest
【Everest View HotelとEverest】


エベレスト街道を征く(1993 .4. 29~5. 9)

山本  卓

EVEREST アマダブラム(AMA DABLAM. 6812m)の背後から静かな夜明けが始まるヒマラヤの朝はエベレスト(EVEREST. 8848m), ローッエ(LHOTSE. 8516m),ヌプッエ(NUPTSE. 7879m)のシルエットをくっきりと浮かび上がらせて荘厳そのものです。 雪と岩の峰々が朝の光を受けてオレンジ色に輝き、その姿を刻々と変えていくのはまさに圧倒的な迫力で息を呑む思いです。
タムセルク(THAMSERKU. 6623m), カンテガ(KANG TAIGA. 6685m), タウチェ(TAWECHE. 6501m),は今度の山行きの間中一番身近に我々を取り巻いていた山々で、これらの山々に囲まれた小さな村の台地に張ったオレンジ色のテントが周りの緑と雪の峰々との間で原色のコントラストが鮮やかでした。
EVEREST 予想したこととはいえ、高山病でフラフラ歩いている横を鼻歌交じりでスタスタ登っていく地もとの若者たちを見ていると環境への適応性の不思議さを痛感します。その若者たちの献身的な協力なしにはこの感動を味わうことは出来なかったことを思うと、都会の塵にまみれることなく大自然の懐で澄んだ空気を吸って生きている彼らは今の時代、一番人間らしく生きているのではないかと思ってしまいます。
切り立った崖の中腹を谷の奥深く続いている一本の道 エベレスト街道。
登頂を夢見て黙々と歩き続けた山男たちの道、そして再び自分の足で踏むことが出来なかった男たちのロマンと悲しみが浸み込んだ道に荷揚げ用のヤクが鳴らすカウベルの音が静かにこだまして山の一日が終わります。 夜、満月に照らし出されて銀色に輝く峰々は、昼間の力強さが消えて不思議な妖艶さを醸し出し一段と神秘的でした。 聞こえるのはただ感嘆詞ばかり。

わずか10日ほどの旅でしたが無限とも思える数々の感動が思い起こされます。 小学校の庭先のような砂利敷きの飛行場、 目のくらむような谷間の道に咲く小さな草花たち。 忽然と現れた海砂の道、ヒマラヤがその昔海の底であったことの驚き。 唯一持ってるカメラさえも捨てたくなる5000mの希薄な酸素。 そんな中をマウンテンバイクで駆け下りてきた東京の学生。クムジュン(khumjung)の村で見た有名な 「雪男の頭皮」。 エヴェレスト・ビュホテルの暖炉を囲んでドイツのテレビ・クルーとの一夜。 そのホテルに青春をかけた熊谷さん(スキー仲間、日大・建築、山岳部出、ホテルの設計者)の情熱的な語り。 ドイツに留学している息子と明日このホテルで会うんだ!と嬉しそうに語っていたオーストラリアから来た初老の山男。 などなど・・・

時間とともに遠い思い出に変わっていくであろうこの旅。 この稿を書き終える日 定年を迎える私の小さな歴史の中で燦然と輝く記録となりました。

1993. 6. 30

(この稿は帰国後スキー部誌に投稿したものです)



ヒマラヤ・エベレスト街道を往く   1993.4~5
                                                                         1993. 5                                                                            山本  卓  
EVEREST この山行きの発端は当時所属していた 「横浜スキークラブ」 の創立40周年の記念に何か大きな事をやろうよ! という話が出て皆で頭をひねっていたとき、偶々会員の熊谷義信氏の提案が紹介され、圧倒的な賛意を持って決定したものです。
彼のProfile と提案の主旨を簡単にご紹介します。 熊谷さんは (保ヶ谷区在住) 日大山岳部OB,1級建築士事務所を経営しています。彼は日大隊がエベレスト遠征したときの副隊長で、エベレスト街道を歩いてヒマラヤのスケールの大きさに圧倒され、” よ~し!ここにホテルを建ててやろう! ” と道中、適地探しをしながら決めたのが 今 エベレスト・ビューホテル(Everest View Hotel)が建っている標高約3800mのシャンポチェ(Syangboche)の丘です。ここは、街道で最も早くエベレストが見える場所です。念願叶えここに彼が設計したホテルを建てて7年ほど経ち、そろそろ補修、修繕の時期になり、彼が現地の様子を調査に行くのに便乗して40周年の記念事業に合わせて “皆でエベレストを見に行こうよ!” ということになった訳です。
  ヒマラヤとかエベレストとか、日頃文字通り雲の上の話と思っていたのが、ある日突然現実になって夢のような幸運を喜びあいました。  参加者は 男性4名、女性6名 の10名、期日はモンスーン前の安定期ということで五月の連休を入れての10日間。 皆仕事を持っているので、かなりの強行軍だけれどこれで決行。 とはいえ、日ごろ国内のせいぜい3000mの山しか登っていないので、その上の高さに対しての予備知識はゼロ。 何をどう準備すればよいか見当も付かず思いつくものを手当たりしだい35リッターのザックに詰め込んでの出発となった。世界の屋根ヒマラヤ。首が痛くなるほど仰ぎ見るその頂きの高さ、1000mを超える切り込んだ谷の深さ、そこを故郷として力強く生きている高地民族の人懐っこい笑顔・・・。 見るものすべてがはじめての体験となって興奮冷めやらぬ山行きでした。

この道中の思い出を古い記録と記憶を頼りに書き残しておきたいと筆を執った次第です。


1993年4月29日 11am 10名の期待と不安を乗せたタイ航空TG641便が成田空港を一路中継地のバンコックへ向かって飛び立った。 仕事での海外行きと違って、気の合う仲間と連れ立っての遊びの旅は緊張から解きほぐされて至極快適。 ブラデーメリー(トマトジュースのウオッカ割り?)の程よい酔いにうとうとしてる間に15:30pm(現地時間)バンコク着。
EVEREST ホテル(ノボテル・サイアム・スクエアホテル)に落ち着いてから夕食までのあいだ市内散策。 なんとなく新宿の雑踏に近い感じ。夕食はタイ料理。一般に東南アジアの料理は独特の香辛料の香りが強いが意外に日本人の口に合う味付けなのがありがたい。

4月30日 バンコク発10:55am タイ航空311便でエベレストが待つネパールの首都カトマンズに向かう。 飛行機の前方はるかに雪をかぶったヒマラヤの峰々が細いのこぎりの歯のように見え始めたとき機内の乗客たちが一斉に右や左の窓に大挙移動して歓声を上げていた。 眼下には棚田のように切り拓かれた田園地帯が続き、次第に山の雰囲気が濃くなってきた。
12:55pm   カトマンズ空港に着陸。  猛烈な暑さだったバンコクに比べ、流石に清涼な高原という感じだが、濃緑色の木々に咲く原色の花はここがまだ亜熱帯地帯であることを誇っているようであった。 空港で現地旅行社のガイドの青年と合流。日本で研修を済ませたとかで流暢な日本語を話す好青年、彼がこの先の全行程をサポートしてくれた。
EVEREST ホテル・ヒマラヤに荷を降ろし市内見学、 背後に山々を背負った王宮や寺院、ものすごい 人ごみのダウンタウン。 流石に異国に来たな~という感じ。  その夜は熊谷さんの山仲間で エベレスト遠征後そのままカトマンズに居残ってホテルの運営に当っている宮原さんの案内でネパール料理を堪能。  暫くお別れとなる明るい電灯のある夜。明日からの山旅を思い描いて眠れぬ一夜となった。

5月1日 いよいよ山を目指す。 この日、カトマンズからルクラ(Lukla 2500m)乗り継ぎで最奥の飛行場シャンポチェ(Syangboche3800m)まで飛ぶ。  多くの登山者は高度馴化のため、このルクラから歩き始め、街道最後の町であるナムチェ・バザール(Namche Bazar3445m)まで2,3日かけて登り、この市場で最後の資材、食料、ポーター等の調達を終えて一路奥へ向かうのが普通だが、我々は時間を節約するため一気に3800mまで飛行機を使ったため高度馴化が不足でその後、強烈な頭痛に悩まされることになった。 ルクラから乗り継いだのはエベレスト・ビュウホテルの専用の6人乗りの小型セスナ機で、パイロットは町のタクシーの運転手といった感じ。 この飛行機は怖かった! ちょっと隣の村まで・・・という感じで飛び立ったが、天気は生憎の曇り、ルートは霧に埋まった谷あいの有視界飛行、時折雲の切れ目から其処が両側絶壁の千尋の谷の中であることがわかる。 パイロットは慎重に左側の絶壁が見えるぎりぎりの距離を保って壁に沿って飛ぶ。 日ごろ陽気な仲間たちも流石に身を硬くして声も出ない。 何年か前、日本人観光客がチャーターしたセスナ機が霧に巻かれて絶壁に激突、谷底に墜落した機体も遺体も回収不能と即決された事故があった谷である。
EVEREST そのとき目の中に飛び込んできたのは午後の太陽に黒々と照らしだされたV字の絶壁。セスナ機の小さな窓からでは絶壁の頂が全く見えない。両壁の角度からも谷の深さは1000mを超えるだろうとわかる。 想像を絶するヒマラヤの桁違いのスケールに一同しばし声もなく茫然と立ちすくんでしまった。 やがて、前方にやや拓けた台地が現れてそこがシャンポチェ飛行場であった。 滑走路は幅20m位 長さ300mぐらい、スキーのジャンプ台のブレーキングトラックのように山に向かってかなりの傾斜が付いている。 この傾斜のおかげで滑走路が短くても停止できるという如何にも山岳空港らしい。機は急旋回して砂利敷きの滑走路に着陸、2,3度バウンドして停止した。
待望のヒマラヤの土を踏む。 雲海の上は快晴、空気が透明でそのため日差しが強い。 一同、いきなり富士山の頂上に降り立った感じで希薄な酸素のためか足元がおぼつかない。周りには小さなロッジが一軒あるだけで飛行場らしい建物は何もない。まさにタクシー乗り場. 周りを見渡すと其処はすでにヒマラヤの真っ只中。目の前にカンテガ(6683m),タムセルク(6623m)など6000m級の山々が鋸の歯のように連なって首が痛くなるほど仰ぎ見なければ頂上が見えない。 物すごい迫力! 一同 ただ茫然と焦点の合わない虚ろな目で一点を見つめるばかり。 凄い処に来てしまった!というのが実感だった。
EVEREST飛行機が2往復して全員集結。 ここで、われわれに同行してくれるポーターの方たちと対面。僕の相棒は14,5歳位の少年、名前はMimgma Tshering Sherpa君。近くのKhumujung村に住む中学生? 人懐っこくて可愛い、将来は医者になりたいとか。 あの山の中で結構通じる英語を話すのは楽しいし有り難い。 一同もそれぞれペアが出来て さあシュッパツ。 初日は高度馴化のため小さな峠越えでエベレストビュウ・ホテルまでの標高差200mをゆっくり歩く。 出発直後に結構な急坂があり、いきなり酸素不足の強烈な洗礼をうけて一同の足もおぼつかない。丘の上からKhumujungの村が見える。石積みの小さな家が棚田のような敷地に点在している。その一角に学校があった。石つくりの平屋、教室は幾つあるんだろう。 それでも小さなグランドにはサッカーのゴールポストが立っていたのにホットした。 少し体がなれて周りを見渡すと其処は周囲を6000m級の岩山に取り囲まれたヒマラヤそのもの。その圧倒的な迫力に息も止まる衝撃を受けた。
Kang Taiga(6685m),Thamserku(6623m),Ama Dablam(6812m) などなど・・・。岩山に張り付いた氷と雪、なだれの滑った跡、樹林帯の濃い緑、其処に咲く真っ赤なしゃくなげの花、大自然の造形の神秘さにただ驚嘆するばかり。 2時間ぐらいかけてようやくホテルに着。 このころは一同体も少し慣れて元気を回復していた。 ホテルは石を主材にした西洋風2階建て、熊谷さん(設計者)が敷地を探すとき一番苦労したのは機材搬入用のヘリコプターの着陸地があるかどうか と言うことだったとか。 ホテルで小憩の後、まだ日が高いので、体ならしをかねてkhumujung村に保存されている有名な「雪男の頭皮」 と言われている秘宝?を見に行くことにした。
EVEREST歩いて3,40分位。 村の中ほどにあるごく普通の一軒や。ガイド氏がどこからか一人の老人を連れてきた。彼が秘宝の管理人らしい。 大きな錠前をあけて中へ通された薄暗い部屋の真ん中に置かれた大きな募金箱(Donation box)の上に50cm角ぐらい前面がガラス張りの箱の中にその秘宝が鎮座していた。  大きな三角おむすびの様な毛皮である。 確かに動物の体のある部分には違いないが、普通の動物では三角形になる部位を持っているとすれば、しいて言えば成長したオスのゴリラの頭がこれに近い・・・そんなイメージを持った不思議な秘宝であった。 いくばくかの参観料を払って長い間の願望だった「雪男の頭皮」とのご対面を終えた。
ホテルへの帰り道、夕暮れの岩山はお互いに影を重ねて静かに夜を待っていた。ヒマラヤの夜は文明の音を完全に遮断して静寂そのもの。 一同も別世界の初めての夜に不安と緊張とが入り混じって日ごろの陽気な話し声が心なしか影を潜めている。ホテルの夕食はこの隔絶された地にどうして取り揃えたのかと思うようなメニューに一同感激.. 世界中からの宿泊客が満足するとは思えない料理ではあるが、精一杯のもてなしの気持ちがうれしい。 標高4000mの夜は冷える。 大きな暖炉を囲んで食後のくつろぎ・・・、今日一日の思い出すことのなんと多いことか。 一瞬のうちにアルバムが一杯になるほどの,あれこれの話にようやくみんなの顔が下界並みになった。 燃料節約のため自家発電は9時まで。  かくして、ヒマラヤの初日が終わった。

5月2日 希薄な酸素のためか興奮のためか熟睡できず朝を迎えた。 少し頭痛がする。 水は貴重品なので小さな洗面器一杯の割り当て。 これで朝の身支度を全て済まさなければならない。朝食に集まった顔は誰も皆寝不足や頭痛の洗礼を受けて威勢のいい朝の挨拶が聞こえない。 簡単な朝食にもあまり手が伸びず体力保持のため無理して詰め込んだ感じ。 これから始まるテント暮らしに備えリュックの点検。 いつの間にかポーターの人達も集合して, さあ、いよいよトレッキングの開始。 ホテルの裏の丘からは目指すエベレストが見えるはずなのに登山道は脇道を行くのでエベレストは暫くお預け。 道はカンテガ、タムセルクを背中にしてドット・コシ川の対岸に出るため緩い登下降を繰り返し尾根を巻いたところで突然,アマ・ダブラム(6856m 現地語でアマは“母”、ダブラムは“首飾り”という意味) があの独特の雪塊(セラック)を飾った巨大なオベリスクのごとく目の前に覆いかぶさるように飛び込んできた。
EVEREST あのセラックは黒々とした岩肌に大きくかけられた純白の首飾りそのものだった。 その独特の山容がエベレスト街道で最も人気の高い山と言われているのも納得。
そして遂に、ローツエ(8501m)、ヌプッツエ(7879m)、の雪煙の奥に待望のエベレスト(8848m)が雪さえ張り付かない黒々とした岩肌の頂上部分を少しだけ現した。 快晴の空に雪煙を巻き上げている世界の最高峰が自分の肉眼の中に飛び込んできた感動。 ついに8000mの世界を見た。自分がその場にいることが信じられない荘厳な聖地。 白き神々の座。 一同歓声と興奮を抑えられず希薄な酸素の中で精一杯この山行きに参加した幸せを噛みしめていた。   興奮冷めやらぬ中、先を急ごう。
EVEREST 緩い登下降が続く山腹の道はやがて石楠花(シャクナゲ)の樹林帯に入る。 ヒマラヤのシャクナゲは日本のそれと違って樹高10mを越す大木で、濃緑色の葉と真っ赤な花の並木が周りの岩と氷の絶壁が続く谷あいの道にどこまでも続いていた。 なおもくだり続けるとやがてDudh Kosi川の水音が聞こえてきて吊り橋の袂に出た。 久しぶりに大きな川の流れに会った。村人たちはこの水をはるか上のホテルに運びあげて唯一の現金収にしているという。何年か前、ドイツがこの地区に発電所と水道施設を計画したけど、結局村人たちの反対にあって現状が続いているらしい。
EVEREST谷川にかかる吊り橋は長さ80mぐらい、当然揺れる。 恐るおそる渡ったその後を荷物を山ほど背負わされたヤクが見事にバランスを取りながら平然と渡っていたのは驚きだった。 やはり4本足は安定するのかな~。対岸にはロッジ風の建物が2軒、少し西洋風なのがなんとなく懐かしい。 ここからタンポチェ(Tengpoche 3860m)の村までは長い登りが続く。特に前半はかなりの急坂。出発地点と同じぐらいの高さまで登り直す。 まだ長時間の登りに体が対応できず呼吸が苦しい。 道は谷の中腹をトラバースするようにどこまでも続いている。
EVERESTやがて登りきってやや傾斜が緩んで其処がタンボチェの村。この村から見るアマダブラム、エベレストは絶景だった。 今日の宿営地 デボチェ(Deboche 3757m)までもう一息。 緩やかな山腹の道をたどり、夕暮れ近いデボチェのテント基地に到着。 長い歩きが終わった。 小さなカメラ一つの空身なのに全エネルギーを使いきったぐらいの疲労感。 この先まだまだ厳しい高度障害の怖さが待ち構えていることを予感する。荷揚げ専門のポーターたちが、テントと炊事道具、食料を背負って先行し、我々が辿り着いたときには立派なテント村が出来ていた。 ここはラマ教の立派な尼寺がある静かな村だった。 そろそろ森林限界に近いこの付近では長年の風雪に耐えてきたヒマラヤ杉やシャクナゲの古色蒼然とした木立が周りの岩壁と相まって見事な構図を描いていた。
一日の歩きを終えた仲間たちはそれぞれのテントに潜りこんで夕食までの一瞬のまどろみ。 やがて、食事係の少年が夕食の合図にフライパンを叩いて知らせてくれる。あちこちのテントからごそごそと這い出してきてテント村初めての夕食。 大きな食堂テントに集まった一同は少しのまどろみで元気を回復し、食欲も回復して感動の一日をわいわいがやがや賑やかな食事だった。メニューは茹でたポテトとスパゲティー(だった?と思う)。飲み物は甘い紅茶、美味しかった。 食事が終わったころは山すっかり夕暮を迎え昼間見た山々が夕日に上半分を照らしだされてオレンジ色に輝いて素晴らしい景色。 一同又もや歓声とあらゆる感嘆詞でその美しさに酔っていた。 陽は沈んだ山は流石に冷える。冬山用のヤッケを着て満天の星空を眺めて長かった一日を追った。 2枚重ねの寝袋に潜り込んで芋虫の様なわが身が可笑しかった。

5月3日  テントの中で顔だけが寒くて目が覚めた。 恐る恐る這い出して外に出る。
EVEREST 寒い! 乾いた寒さだ。 昇ったばかりの太陽が周りの山々の頂上付近をオレンジ色に染めて日陰の岩肌と強烈なコントラストを描いている。時間が経つにつれてオレンジ色の範囲が次第に下に下りてきて今日も快晴。 やがて炊事係りの少年がフライパンを叩いて朝食を知らせてくれる。 洗面用の水も温めのお湯が有難い。 熱い紅茶でほっとする。 ヤクのミルクで作ったバターをたっぷり塗ったパン(ナムチェ・バザールから背負ってきた)を焚き火で焼いたトーストに杏のジャムをつけて食べる。 美味い。 下界から登ってきた異国の見知らぬ人たちに精一杯のもてなしを・・・と一生懸命な姿に一同感謝。
さあ、新しい一日が始まる。 今日はいよいよ4000mの世界、ペリチェ(Pheriche4252m)まで。酸素が希薄になる苦しい道のりになるだろう。道は背の低い潅木の茂る緩やかな登り道。 小さな集落がわずかな平地にジャガイモの白い花を咲かせていた。 目のくらむような崖の中腹がヤクの放牧場、平地の牛では1日も生きていかれない過酷な草場に悠々と草を食むヤクのたくましさ。
EVEREST人も動物もこの過酷な環境があたかも自分に最適な生活の場であるかのように平然と生きている姿に心をうたれた。流石に息が苦しい。 みんな声もなく黙々と山腹の道を登る。一息つく間隔が次第に短くなる。後方にカンテガ、タムセルクが見慣れた姿を見せ、目の前にはアマダブラム(6856m)が覆いかぶさって首が痛くなるほど振り仰がなければ頂上が見えない。 「母の首飾り」 が語源といわれるセラック(雪塊)が今にも崩れ落ちそうに懸命に張り付いている。(山の雑誌 12月号にこのセラックが本当に崩れ落ちた  と出ていた!) 残念ながらエベレストはヌプチェ(7879m)の陰で見えない。代わりに、ぐーんと近づいたローツエが8500mの頂上で雪煙を巻きあげている。  凄い! 壮大なヒマラヤの大パノラマ! 感嘆詞が欲しい!
EVEREST トレッキングという山遊びが世の中に現れるまでは、この道はひたすら登頂を目指す山男たちだけの誇るべき王道であった。岩と氷の絶壁に取り付いているわが身を思い描きながら、生と死を背中合わせに背負いこの絶景の点景となって谷の奥に消えて行ったのだろう。 道は緩やかに、しかし確実に高度を上げていく。頭痛が激しくなった。 みんなの動きが急に緩慢になってきた。 折角作ってくれた昼食もほとんど手が伸びてこない。生まれて初めて体感する4000mの世界。希薄な酸素は生命体の根幹をも揺るがして一挙手一投足が虚脱された夢遊病者のごとく力なくわずかな歩幅を刻んでいる。 この日5時間の歩きを終えて夕暮ペリチェ(4252m)のテント場につく。
EVEREST 同じ高度に長期滞在して高度順化を図るのが正道とは知りつつ、先を急ぐあまり連日高度を上げていくパーテーにとっては馴化の機会がない毎日が希薄な酸素との戦いであった。皆 倒れこむようにテントに潜り込み僅かに残された酸素ボンベを回し吸い?して一瞬の安らぎを味わった。 夕食までの小憩も食欲を奮い立たせる程にはならないが食事テントはようやく明るさを取り戻して今日一日の感動に話が尽きなかった。 夕闇に覆われた山肌は昼間の雪の白さがそのまま銀色にお色直しをして再び我々の前にその艶やかな姿を誇示していた。 空が明るくなるほどに瞬いている星。 天空にこれほどの星があるとは信じられないほど星の絨毯。 夜のヒマラヤは神秘、まさに神々の饗宴の座であった。
EVERESTその夜、希薄な酸素に苦しむ我々のためにポーターの少年2人が出発地のホテルまで酸素ボンベを取りに下山してくれた。 いかに地元とは言え、標高差600mの谷あいの危険な山道を15キロのボンベ2本を背負っての難作業。 真夜中、テントを揺り起こして新鮮な酸素を吸わせてくれた有り難さ。一同声もなくただ感謝。 この日、全く偶然にあの山道をマウンテンバイクで駆け下りてきた東京の学生に出会った。 急いで帰国しないと授業に間に合わない・・・すごいスピードで駆け下りていった。世界中何処に行っても日本の若者に会う。世界は狭いな~と実感する。

5月4日 猛烈な頭痛の中に朝を迎える。 当初の計画ではこの日は目的地のカラパタール(Kala Pattar 5545m)まで登る予定だったが、行動の遅れと体調を考慮して、残念ながら目的地をトクラ(Tukla 4593m)までと変更し今回の最終目的地とした。 ペリチェ(4252m)からプルンカルポ(Phulong Karpo)までは比較的平坦な草原の道が続くが、その後トクラまでは一気に急な登りとなる。 わずか数軒の集落が人の息吹を伝えている。
EVEREST平坦地にジャガイモの花が咲いていて、この辺りが最奥の集落地かもしれない。 やがて前方に大きな岩が転がるガレ場が現れる。 クーンブ氷河のエンド・モレーンである。氷河から溶け出した川を渡り少し登ると其処が今回の最終目的地Tukla(4593m)である。 正午ごろ トクラに到着。 カトマンズを出発して4日目、無謀とも思える強行軍で4500mの地を踏んだ。 当初の目的地カラ・パタール(5545m)まで標高差1000m、最低3日は必要だろう。 仕事の合間にようやく見つけた10日間の休暇ではトクラまでが限界か。カラパタールからエベレストの南壁を見るのが最大の楽しみだったが想い叶わず無念!
影に影を重ねた岩と雪との強烈なコントラスト。再び立つことのない天空の楽園に埋没している充実感。 一同疲れた体を大地に投げ出して覆いかぶさるように迫ってくる鋭角に切り立った頂きの数々を記憶の襞に埋め込んでいた。 午後の太陽が一向に動きださない我々をせかすようTawoche(6542m)の陰に消えた。
さあ、下山。今日中にPangpoche(3900m)まで降りなければならない。一同尽きぬ名残に後ろ髪を惹かれるように渋々下り始める。 久しぶりに見るような下界の光景、4500mは流石に高いと思いつつ、エベレストはこの足元からさらに4300mの高さに頂きがある。 想像を絶するその高さ。 あれだけ苦しんでようやく未だ半分、しかし登頂を目指す山男たちにとってはベースキャンプ(5500m付近)までの街道は格好のウオーミングアップなのだろう。
EVEREST ここまでの間、幾組かのパーテーに追い越されたが、彼らは皆ポーターと同じ荷を背負って黙々と谷あいの道に消えていった。下りは一足ごとに酸素が濃くなるようで嬉しい。気付かず登ってきた道も下りではその勾配が驚くほど急に見えるこれでは苦しいはずだと納得。三々五々のペースで夕暮れの迫った谷あいの道を下る。くだりのなんと楽なことよ。周りの峰々は頂の先端だけに夕陽を受けてオレンジ色に輝いている。 アマ・ダブラムのあの「母の首飾り」が夕陽を受けて黒々の岩肌の上に文字通り黄金の首飾りのように輝いている。  標高4500mという生涯の最初で最後の体感を慈しむように石敷きの道を下った。
EVEREST標高差600mを下って夕暮れのパンポチェのキャンプ場に帰り着く。 標高差600mの酸素濃度がこれほど劇的に体調を回復させてくれるものなのだろうか。 キャンプ場が久しぶりに賑やかな話し声で埋まった。 大きな仕事を終えた安堵感と、残り少ない山旅への心残りに仲間たちも想いを昂ぶらせて話が尽きず、テント生活最後の夕食を終えたころは満天の星を背負って銀色に輝く神々の座は静寂の中に明日を待っていた。 そのころ、一日の仕事を終えたポーターの若者たちが焚き火を囲んで歌を唄っていた。焚き火に映し出される若者たちの顔は日本人とルーツを同じとするかのように、まさに “隣のお兄ちゃん” そのもの。 皆、陽気な好青年たちだった。彼らが歌う日本の民謡に似た節回しが静かな岩山の中に吸い込まれていった。

EVEREST 5月5日 久しぶりに酸素ボンべのお世話にならず朝を迎えた。 ようやく寝袋から開放される。 今日はホテルまで降りる。標高差はほとんどないがDudh kosi河まで下ってまた登り直すという行程は体力的には相当きつい。 吐く息が真っ白になるような寒さ、皆芋虫のように着込んで山の最後の朝食に集まってきた。大きなマグカップに並々とに注がれた熱い紅茶がようやく生気を取り戻してくれる。 希薄な酸素の中を彷徨ったこの数日、ようやく高度障害から抜け出せそうな体調に回復して一同の食欲も回復。 食堂テントは自分を下界から切り離して孤高の人にしてくれる揺るぎない安堵感をにじませて居心地のいい場であった。 高度が下がるに従い呼吸が楽になるのと反対に、カラパタールまで登りきれなかった悔しさが一同の足を重くしているようだった。
EVEREST アマダブラムに見送られるようにシャクナゲの道を下る。雑木林の奥でノロ鹿の親子がじっとこちらを見ていた。川の対岸を登る。登りは流石に息が苦しい、ゴルフボールぐらいの石を踏み越えるのが辛い。 昼ごろようやくホテル着。 大仕事を終えた安堵感かどっと疲れがでる。ベッドでしばしの小憩、窓から午後の日差しが差し込んで目が覚める。日暮れまでの間、ホテルの周りの小高い丘を歩く。 岩山と緑の芝生の中に這い松が点在して日本の枯山水の庭を見ているような気がする。 小高い丘の上から遥かにエベレストが見える。ここが最高のエベレスト・ビュウポイント。 深く切れ落ちたV字の谷の中腹をトラバースして谷の奥に消えていくエベレスト街道。先ほどまで苦しめられたあの道が、もう懐かしくさえ思われる。
EVEREST正面にローチェ(8501m)とヌプチェ(7879m)が露払いのように控えて、 その背後に黒々とした岩肌を見せるエベレスト(8848m)が世界最高峰の威厳に満ちた姿を午後の日差しの中に輝かせていた。 芝生に寝転んでこの大自然の造形の妙にしばし見入る。世界中の山好きの仲間にとって ヒマラヤの奥地に足跡を残すことは永遠の願いであろう。 思わぬことからその願いを叶えて、息の詰まるような数々の感動を味わったこの山旅。 ホテルの裏の丘で、エベレストを毎日見つめていたであろう綺麗な小石を幾つか拾ってきた。 いつの日か故郷の山を懐かしむ小石と共に自分もこの山行きを懐かしく思い出すことだろう。
EVEREST ホテルのサンルームは直径5mぐらいの円形、壁、天井がガラス張りで周囲の山々が360度見渡せる。 驚いたのは、そのガラス張りの天井に全く塵、埃が溜まっていない事だった。いつでも掃除に登れる構造ではないし、あのガラス張り全面を洗い流す水がある筈はないし。 やはり、この高地では下界の荒れ果てた環境とは無縁の清浄な空気に満たされているのだろうか。 大きな窓ガラスに雪煙を巻き上げているエベレストが綺麗に映っていた。一週間の山の生活で皆逞しくなって食欲も回復。 テントの食事に慣れたのかホテルの夕食はすごく豪勢だった。 久しぶりのビールの味、美味い!
夕食の際、隣の席のドイツのテレビ・クルーから取材の申し入れがあり、暖炉を囲んでの和やかな交歓会となった。 中でも、格好のいい金髪の青年がわが女性軍の注目を集めて盛り上がっていた。 このクルーはエベレストのベースキャンプに集結している各国のパーテーに張り付いて取材をしてきた帰りとのこと。 明日 山を降りる我々のシャンポチェ飛行場までの道中を撮影したいとの申し入れを受けた。 この夜、同じく仲間になったオーストラリアから来た如何にも山男風の中年男性が“明日、ドイツに留学している息子と4年ぶりにこのホテルで会うんだ” と嬉しそうに話している姿が印象的だった。 ヒマラヤという接続詞だけで繋がっている見知らぬ国の見知らぬ仲間たちが同じ暖炉を囲んであたかも10年来の仲間のように談笑している姿に国の境に線を引くことのなんと無意味なことよ と思いつつヒマラヤ最後の夜を楽しんだ。 この夜、ホテルの計らいで消灯時間を延長してくれたのに感謝。

EVEREST 5月6日 これから奥地を目指す者、そして下界に降る者、皆それぞれの思い入れを一杯に詰めたリュックを背負ってホテルを後にする。一週間サポートしてくれたポーターたちとの別れが辛い。 感謝の印に使わなかったTシャッツや防寒着、ソックスなどをMimgma君にプレセント。 厳しい冬、防寒着を着るたびに思い出してくれるだろうか。 仲間も皆それぞれの相手に感謝の印を手渡しながら別れを惜しんでいた。 ホテルの人が我々一人ひとりに真っ白なマフラーのような布を首にかけてくれる。これは旅人の安全を願うこの国の古くからの習慣との事。 テレビクルーと簡単な打ち合わせをして飛行場への道を下る。 背の低いヒマラヤ杉の中に見え隠れしていたホテルもやがて丘の影に消えていった。 初日、希薄な酸素の中を喘ぎあえぎ登った道、こんなに急な登りだったのだろうか。
EVERESTカメラマンが2人、後になり、先になり我々の前後を走り回って撮影している。 未知の世界に挑んだ緊張の日々、世界の最高峰をこの目に焼きつけた興奮の一瞬、月光に照らし出されて銀色に輝くの夜の峰々、白紙に滲むインクのように無限に湧き出る数々の情景を思い起こして下界へ向かう足取りが重い。 やがてシャンポチェの飛行場、ルクラとの間のピストン輸送のため、いつ来るか判らない飛行機を待つ。 ようやく終わった山旅の緊張が解けたのか、一同放心したように声も少なくベンチに腰をおろしている。
やがて新しい山男たちを乗せてセスナ機が着陸、降りてきた彼らの興奮振りは一週間前の我々の姿そのものだった。 来る者と帰る者の悲喜こもごもの姿を追ってテレビクルーが駆け回っている。

周りの山々をもう一度見渡して、後ろ髪を惹かれる思いで乗り込む。  エンジン全開、下り勾配の滑走路はまさにジャンプのアプローチと同じ。2,300mの滑走でV字の谷の真っ只中に放り投げられたように宙に浮いた。  対岸の絶壁が目の前に迫ってくるのを避けて機は右へ急旋回し谷間の廊下を沈むように高度を下げ、こうして真空地帯の様だった天空の楽園から再び猥雑な人間社会に引き戻されてしまった。 ルクラからカトマンズまで乗り継いで夕刻ホテル・ドウワリカに荷を降ろした。 カトマンズの街は家の壁も道路も褐色一色のイメージ。 ホテルは蔦が絡んだ古色蒼然としたローカル調で、取り囲む大木の緑が広い中庭に置かれたテーブルの真っ赤なクロスと南国的な強烈なコントラストを描いていた。 この街には近代的なコンクリートの建物は似合わない。 夕食までのひと時、涼しくなった中庭で久しぶりに飲んだコーヒーは有無を言わさぬ文明の味だった。久しぶりに酸素をたっぷり吸った居心地の好さに仲間達の話も先ほどまでの山の中の生活をもう遠い昔を懐かしむように果てることなく続いた。
 かくして、思いもかけず巡ってきた今回のヒマラヤ・トレッキングという大イベントは、事故も故障もなく無事終り、何事もなかったように再び大都会の人ごみの中の一人に戻ってしまった。
 あれからもう14年、リュックを背負ってくれたMimgma君は希望通り医者になれただろうか。

Everest


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横浜中央走友会 山本 卓


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